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01.範頼伝説と石見吉見氏

見氏の祖源範頼は建久4年(1193)8月、謀叛の疑いを掛けられ誅殺されました。範頼は弟の九郎義経と比べると地味な存在ですが、一応範頼伝説なるものが各地に遺されています。その中で、石見吉見氏ともしかしたら関係があるのではと思うものを紹介したいと思います。

●福井県今立郡今立町

福井県今立郡今立町東庄境・朽飯には、範頼が伊豆から脱出し、当地に落ち延びて隠れ住んだという伝承が遺されています。「お蒲様」と呼ばれる像があり、この地区の人々に崇拝されていますが、お蒲様とはもちろん蒲冠者範頼のことです。

また、東庄境に日吉山浄円寺という浄土真宗の寺があるのですが、伝承によると開山は範頼の室日吉御前越前三位平通盛息女)で、寺宝として範頼坐像や範頼使用の太刀・椀が伝えられています。

建久4年(1193)、頼朝に追われた範頼は室の日吉御前と共に現今立町に落ち延び、朽飯の居館で平和に暮らしました。1年後範頼は没し、日吉御前は出家して「日吉禅尼」となって、範頼の菩提を弔うため浄円寺(当初は浄円庵)を建立します。日吉禅尼は建永元年(1206)、35歳で没し、その後は長男良円が「頼国法師」となって住持し、以後その子孫が代々住職を務めているということです。(現住職は範頼の28代孫という。)

さて、今立町の範頼伝説と石見吉見氏の繋がりですが、上記伝承に出てくる範頼の長男という「良円=頼国法師」という名前、「萩藩閥越録」「大野毛利家譜」にも出てくるのです。

●『大野毛利家譜』●
吉見頼國 或頼業 式部允
母小山朝政女 初山僧良円律師後称吉見式部丞 法名頼円 建保元年和田合戦二軍功其後能州下向シテ卒

範頼伝説では範頼の長男、大野毛利家譜では範頼の4代孫で時代が合わないように思えますが、大野毛利家譜の譜文を見れば、頼国(良円律師)は建保元年(1213)の和田合戦で活躍する年代の人物なのです。(既に述べたように石見吉見氏の系図の初期部分は年代が非常に混乱している)とすれば、両者の年代は変わらないことになります。

また、今立町には現在も「蒲」という苗字が10世帯程あるそうですが、石見吉見氏初代頼行の母を「蒲五郎左衛門尉範行女」、弟頼挙に「蒲小四郎」と注記する系図があります。今立町の範頼伝説が石見吉見氏と関係があるのか否か、今後も調査したいと思います。ここに石見吉見氏出自を解明する鍵がある?

範頼の室を越前三位通盛の息女とするのは年代的に困難か?通盛は久寿2年(1155)、平教盛の嫡男として生まれ、正室は平宗盛女(1165〜1170頃生?)、妾として小宰相(1165生?)がいた。つまり、範頼没以前に通盛の娘(日吉御前)が範頼の子を産むことは年代的にあり得ない。因みに、日吉御前は建永元年(1206)35歳で没したというから、承安元年(1171)生まれということになる。恐らく、範頼の子孫或いは関係者が来住して、範頼伝説が生まれたのであろう。