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02.吉見弘信・頼弘の妻に関する考察

見吉見氏については、5代頼弘以前の人物はその生没年とも一切不明で、系図に記される事歴等にもそのまま信じ難いものが多数見受けられます。ここでは石見吉見氏4代弘信・5代頼弘の妻に関して、少し考察してみようと思います。

先ず、4代弘信の妻ですが、「吉見系図」「上領氏系図」共に上領淡路守頼英の娘とします。「上領氏系図」によれば、淡路守頼英は三河守頼見(1350-1426)の嫡男で、永享の乱(1438年)で軍功を挙げ、文安元年(1444)に没しています。その娘となると、1390年代の生まれではないかと思うのです。一方、弘信は生没年とも不詳ですが、大内弘世(1325-1380、1366年に石見守護)の偏諱を受けたと思われ、1350年前後の生まれと推測されます。両者の間にはほぼ40年程差があることになります。

次に、5代頼弘の妻ですが、諸系図一致して頼弘の妻を高橋刑部少輔師光の娘としています。高橋師光は石見国邑智郡阿須那を本領とする国人領主です。正平5年(1350)足利尊氏に従い佐波顕連討伐軍に参加し、正平16年(1361)には足利直冬の命に応じて、子息貞光と共に出羽氏を攻撃しています。

永明寺

この正平16年の出羽氏攻撃で、出羽実祐の拠る二ッ山城は落城しますが、その時「永明寺」という寺が戦火により焼失しました。(現在も邑智郡瑞穂町に永明寺の地名が残る)この永明寺ですが、吉見頼弘の開基(応永27年=1420年)で吉見氏の菩提寺である津和野の「覚皇山永明寺」と同じ名前なのです。何故なら、津和野の永明寺は、二ッ山城落城後に高橋氏から吉見氏に嫁した女性の発願によって、出羽の永明寺を再興したものなのです。

この女性が頼弘の妻、高橋師光の娘ということになるのですが、ちょっと時代がずれていると思うのです。焼失した永明寺の再興を願ったということは、やはり在りし日の永明寺の姿を知っていたのではないでしょうか。出羽氏攻撃(1361年)に兄弟の貞光が参加していることを考えれば、この女性の生年は1350年代ではないかと思うのです。(写真は吉見頼弘が開基となった永明寺)

一方、頼弘は生年は不詳ですが、没年は文安3年(1446)と判っています。頼弘の生年は、(1)大内義弘(1400年戦死)の偏諱を受けたと考えられること、(2)応永12年(1405)、石見諸豪族間で結ばれた盟約に頼弘が署名していること、(3)頼弘の次男成頼の生年が1420年前後と推測される(成頼は文明14年(1482)時点で、幕府老臣連署奉書(益田家什書)によってその生存が確認され、成頼室(周布兼宗娘)の没年は文亀2年(1502)である)こと等から、だいたい1385年前後と推測します。両者の間には30年〜35年の差があることになります。勿論条件次第では(例えば一方が、親が相当晩年の時の子である等)同世代の人物となるのでしょうが、色々と不自然な点が生じてしまいます。

そこで、吉見弘信の妻が高橋師光の娘、吉見頼弘の妻が上領頼英の娘とすると、世代の問題は解消されます。そして、吉見頼弘は母親の願いによって津和野に永明寺を再興したことになります。

萩藩閥閲録の吉見頼世譜文には、「頼弘嫡子能登守、始二郎、先于父死女子一人男子一人(久寿丸ト号ス)母上領淡路守女也、」と記されており、頼弘の妻は上領淡路守(頼英)の娘ということになる。