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03.吉見一族の実名と偏諱

(いみな)は、「口に出すことが憚られる」という意味の動詞が転じて、人の本名・実名を指す言葉となりました。昔は実名で呼掛けることは相手に対して非常に無礼である(主君が家臣を呼ぶなどの場合は良い)、との考え方があり、実名で呼ぶことは避けられたのです。そのため多くの人が諱とは別に字(あざな)(通称)を持ち、人々は皆通称で呼び合っていました。例えば能登吉見氏の吉見氏頼の場合は、

吉見が名字・三郎或いは右馬頭が通称・源が・朝臣が・氏頼が・道源が法名となります。

正式な公文書には氏と姓を記すのが決まりであったのでで、「右馬頭源朝臣氏頼」などと記す。

鎌倉時代以降、貴人が臣下に対して諱の一字を与えたり、元服の際に烏帽子親烏帽子子に諱の一字を与えたりする習慣が生まれました。これを偏諱を与える(受ける側からは偏諱を賜る)と言います。(一字拝領とも)例えば、小山朝政・結城朝光兄弟は、源頼朝から偏諱を賜っており、また、吉見氏の祖源範頼は高倉範季からの一字拝領です。

偏諱を与える者は家の通字でない一字あるいは実名の下の一字を与え、賜った者はその一字を実名の上の一字とする事が原則(下に付けることは不遜な行為とみなされる)であった。このルールは時代が下るとともに確立したもので、当初は実名の下の一字にするケースもみられた。(宗尊親王→北条時宗など)

これとは別に、ある特定の一字が代々実名に受け継がれることが有ります。これを「通字」と言います。織田氏の「信」や徳川氏の「家」がその例です。吉見氏の場合は清和源氏なので「」或いは「」、始祖が範頼なので「」の字が通字的なものとして、実名に多く見られると思います。通字は途中で代わることもあり、吉見氏の場合も能登の吉見家貞の嫡子が家仲、次男が家朝、家朝の後裔因幡吉見氏も政家・長家と続き、「家」を通字としていた時期が有ります。

そこで、吉見一族の実名から、誰から偏諱を賜ったのか推測してみようと思います。偏諱についての史料など遺っていませんので、時代状況を手掛りとするしかありません。吉見氏の通字を「頼」「義」「範」と仮定すれば、「○頼」「○義」「○範」といった実名は偏諱を賜った可能性があると言えるでしょう。

●武蔵吉見氏

吉見尊頼中務大輔。後義宗と改名。諸系図に「南方」と注記され、南朝に属していた事が知られる。恐らく後醍醐天皇(諱は尊治)の偏諱を賜ったものと思われる。

●能登吉見氏

吉見頼宗執権北条時宗或いは能登守護名越宗長からの偏諱と思われる。この時代は賜った一字を実名の下の一字にすることもあった。因みに頼宗の息女は名越宗長室である。また、頼宗の弟頼源が領した能登国羽咋郡志々見保は名越氏から相伝された地であり、この時期吉見氏は名越氏と関係が深かったと思われる。
吉見氏頼南北朝動乱期の能登守護。父頼隆と共に北朝方として足利尊氏を支えた一人。尊氏から偏諱を賜ったとみて良いであろう。
吉見詮頼吉見氏頼の子で、室町幕府奉公衆の一員。足利義詮の偏諱を賜ったとみて良いであろう。
吉見満隆満隆の実在を証明する史料はないが、能登吉見氏は代々幕府奉公衆であったと思われるので、足利義満に仕え、その偏諱を賜ったのであろう。
吉見家貞幕府の管領であった畠山満家の偏諱ではないか?満家は能登守護畠山基国の嫡子。満家自身は能登守護ではないが、家貞が吉賀郡上領・中領・下領について石見吉見氏の押領を訴えた際、その解決に力を貸したのが満家である。御料所の管理を任されている点から、家貞は室町幕府奉公衆であったと思われ、そのため畠山満家とも接点があったか?
吉見国頼頼隆の三男義頼の子。(孫の可能性も有り)能登守護畠山基国の偏諱ではないか?国頼の子孫は能登畠山氏の家臣となっており、国頼が初めて能登畠山氏に臣従したものか?
吉見統頼・統範能登守護畠山義統の偏諱とみて良いであろう。畠山義統の家臣には、同じように「統」の字を賜っている者が多く見える。
吉見(木部)氏範鎌倉公方足利持氏或いは古河公方足利成氏から偏諱を賜ったものと思われる。氏範の娘が足利成氏室と伝わる。

●因幡吉見氏

吉見政家足利義政から偏諱を賜る。室町幕府奉公衆の一員。応仁の乱の際、今出川殿(足利義視)は勢州小倭村に下向したが、帰洛の際迎えに行った一人が政家である。文明10年には政所申次となり、かなり重用されていた事が判る。

●石見吉見氏

吉見弘信大内弘世の偏諱と思われる。弘信は、石見守護となった大内弘世が吉賀郡を半済地として、その守護領国体制下に吉見領を組込んで行った時期の人物である。尚、弘信の子頼弘は大内義弘の偏諱とされるが、「弘」の字が実名の下の一字となっており、弘信から受け継いだと思われる。
吉見成頼足利義成(後足利義政)の偏諱と思われる。成頼が幕府に出仕していたことは、「親元日記」によって知られる。子息信頼が大内政弘の重臣陶弘護を刺殺した為、吉見氏は政弘から討伐軍を差し向けられるところであったが、成頼が幕府に訴えた為か、討伐は回避された。
吉見興成大内義興の偏諱であろう。父頼興も大内義興の偏諱と考えられるが、「興」の字が実名の下の一字になっており疑問が残る。興成は永正7年(1510)17歳で早世している。
吉見隆頼大内義隆の偏諱である。義隆の娘大宮姫(少将)は初め隆頼に嫁したが、隆頼の没後、弟正頼に再嫁したとされる。
吉見元頼毛利輝元の偏諱であろう。祖父正頼の功績により、吉見家と毛利家の関係は深かった。元頼は吉川元春の娘を妻とした。

この他に吉見正頼・広頼父子は誰かの偏諱を賜ったとも思われますが、適当な人物が見当たりません。