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04.源範頼・吉見氏と安芸国佐伯郡

在の広島県広島市佐伯区三宅(旧佐伯郡三宅村)にも、範頼伝説が残されています。三宅村の南、屋代村との境にある岡山は別名『御曹子山』と呼ばれ、源範頼を祀る蒲明神と範頼の墓とされる五輪塔が存在しています。(広島工業大学のキャンパスがあるのが岡山で、蒲明神と五輪塔は養護老人ホーム喜生園の横にある。)

伝説によれば、兄頼朝の追っ手を逃れ九州に落ち延びる途中、岡山の沖合まで来たとき不運にも暴風雨に遭い、範頼は落命、亡骸が岡山に葬られた、ということです。範頼は一応伊豆修善寺に幽閉され、誅殺されたことになっている(鎌倉幕府の正史吾妻鏡)ので、この地方に移り住んだ範頼関係者が範頼を祀ったことから、このような伝説が生まれたものと想像します。

実際、佐伯郡は範頼の子孫である吉見氏と非常に関わりが深いように思われます。それを表にまとめると以下のようになります。

鶴尾城『五日市誌』に、「吉見三河守頼行は、佐東郡仙洞倉重の鶴尾城に住み、三宅というところに範頼公を御曹司大明神として祀る。頼行は石州津和野城主となり・・・」とある。(佐東郡は佐伯郡が佐東・佐西両郡に分かれたもの。この御曹司大明神が上記蒲明神ということになる。)
佐西郡三宅村蒲明神及び範頼の墓とされる五輪塔が在り、源範頼伝説が残されている。三宅村は吉見氏が領していたとも言われる。尚、石見吉見氏の庶流「岸田氏」の系図にも三宅村が出てくる。但しこちらの三宅村は能登にあったことになっている。範頼の孫為頼が能登国三宅村に下向し、その後頼行は三宅村から石見に下向したとしている。能登と安芸の違いはあれ、「三宅村」が共通していることは興味深い。
佐西郡和田村・
水内村
現在の佐伯区湯来町に当たる地にかつてあった村である。ここに石見吉見氏の傍流の吉見家がある。その系図によれば、吉見成頼の子孫太郎頼安が天文八年(1539)に水内村に移住したようである。
佐西郡寺田村現在の五日市町大字寺田。ここにも石見吉見氏の末裔の吉見家がある。系図によれば、吉見広長の子次郎三郎頼胤に二子が有り、嫡男与左衛門が寺田村に移住したとしている。(尚、一般には広長の三人の子供達は、毛利輝元の追っ手に屋敷を囲まれ、広長と共に自刃して果てたとされる。因みに、頼胤の次男は林斎政頼といい、伊予清水村に移住し、伊達遠江守秀宗に召し抱えられ、宇和島藩士となった。)
桜尾城廿日市市桂公園の地にかつて存在した海城である。一般には承久の乱後、藤原親実が厳島神主となり桜尾城を築いたとされる。しかし、『藝藩通誌』によれば、桜尾城は吉見氏の所築という。
吉見新開明治12年(1879)、五日市村の戸長であった吉見新兵衛は干拓工事に着手し、明治15年に工事が完了した。新兵衛が開いた地は吉見新開と呼ばれ、現在も吉見園という地名が残る。

このように佐伯郡には、戦国末期から江戸初期にかけて、石見吉見氏の末流が移住してきたことが判ります。石見吉見氏が佐伯郡内に所領を有していたことを示す史料は有りませんが、何らかの所縁があったのでしょう。