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■■■吉見一族の姓氏家系辞典■■■

生田氏(萩藩士、中称須子氏)

萩藩士に吉見頼直の四男(三男の誤りか?)、日向守頼辰を祖とする生田氏があります。元々は清和源氏、源満快の8代孫頼之が三河国生田郷に居住し、生田と称したのが始まりです。

その後一族は、伯耆国会見郡内に所領を得て、伯耆国に下向したようです。上総前司宗詮の時、叔父権五郎が本家を押領した為、幼少であった宗詮は家人に連れられ、石見吉見氏の下に身を寄せました。宗詮には嗣子が無く、吉見頼直の四男日向守頼辰を養子として、生田家を嗣がせました。頼辰は石見国須子郷(長野庄内、現益田市)及び長門国阿武郡桜村を領し、姓を須子と改めました。

頼辰嫡子、伊豆守頼宗は応仁の乱の際、吉見信頼に随って上洛し、応仁2年(1468)3月、27才で討死しました。頼宗に嗣子が無かった為、弟右近将監頼続が須子家を嗣ぎました。

頼続の孫、長門守宗陳は、天文23年(1554)、三本松城の役の際、城中から陶軍に夜討を仕掛けて軍功を挙げました。

宗陳の子、佐渡守辰盛は吉見広頼の老臣となり、文禄の役では吉見元頼に随って渡海し、軍功を挙げました。辰盛の子、次郎左衛門頼重の時、吉見家と共に長門へ移り、吉見家断絶後は毛利秀就に仕えました。

源満快流の生田氏については他に見えず、出自の真偽は不明。日向守頼辰の嫡子頼宗は応仁2年(1468)に27才で討死しており、逆算すると生年は1441年であり、吉見頼直の子としては年代が合わない。また、応永年間(1394〜1428)、吉見家の雑掌として須子伊豆守が史料に遺るが、系図には見えない。もし頼辰が吉見頼直の四男であることが事実ならば、恐らく頼辰と頼宗の間に2〜3代の脱落があると思われる。

生田氏系図