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■■■因幡吉見氏の系譜と事歴■■■

01.因幡吉見氏概説

幡吉見氏は能登吉見氏の庶流で、吉見右馬頭家貞の次男弥二郎家朝に始まります。康正2年(1456)の「造内裏段銭并国役引付」に、「弐貫三百丗五文 吉見弥二郎殿(家朝)。因幡国高野郷小田保段銭」と見えるのが史料上の初見であることから、吉見氏が因幡に移住したのは、15世紀中頃と思われます。池谷・延興寺・外邑・小田などの集落が点在する小田谷一帯に勢力を持ち、姥ヶ谷城(現岩美郡岩美町延興寺)を居城としていました。

因幡吉見氏も能登吉見氏と同じく、幕府奉公衆の一員でした。「永享以来御番帳」及び「文安年中御番帳」に見える吉見伊予守は家朝と思われます。家朝の嫡男兵部少輔政家は、文明10年(1478)12月、幕府から政所申次に任じられました。

因幡吉見氏に関する史料はほとんど遺されておらず、その後の動向はよく判りません。天正年間、羽柴秀吉の因幡攻めの際、吉見氏の居城姥ヶ谷城も攻略され、因幡吉見氏は滅亡したと伝えられています。また、「岩美町史」によれば、吉見兵部大輔範仲は隣国但馬の美方郡に逃れ、「塩冶周防守」と号して芦屋城に拠り、芦屋城が羽柴秀吉によって落城した後、その子範賢は姓を「米山」と改めて子孫が続いたといいます。(米山系図、この塩冶周防守については異説あり。)

因幡吉見氏略系図