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■■■因幡吉見氏の系譜と事歴■■■

02.因幡吉見氏の成立

幡吉見氏は、因幡国巨濃郡高野郷小田保(現在の岩美町池谷・延興寺・外邑一体)を本貫とした奉公衆勢力です。系図纂要所収『吉見系図』によれば、因幡吉見氏は能登吉見氏の庶流で、吉見右馬頭家貞の次男家朝(弥二郎、伊予守)に始まるとされます。一方、諸家系図纂所収『吉見系図』によると、家朝は武蔵吉見氏の庶流で、吉見太郎頼輔の次男となっており、両者で家朝の系図上の位置付けが異なっています。

諸家系図纂所収『吉見系図』では、吉見頼輔の後を武蔵守頼泰―右馬頭家仲と繋いでいますが、家仲は能登の右馬頭家貞の子とするのが正しく、諸家系図系纂の吉見系図には混乱があるようです。通字という点からも、右馬頭家貞の子として太郎家仲・弥二郎家朝・弥三郎家経を掲げる系図纂要所収『吉見系図』の方が正しいように思われます。

吉見氏がいつ頃因幡に進出したのか、それを示す史料は遺されていません。石見吉見氏に伝わる史料によると、暦応3年(1340)11月24日付けで吉見右兵衛権佐(年代的には2代頼直か?)に宛てられた安堵状に、「因幡國岩井庄」が見えています。真偽は不明ですが、吉見氏にとって岩井庄が南北朝期から関わりを持つ由緒ある地であることを示唆しています。

●『足利尊氏安堵状寫』●(吉見家譜)
山城國物集女山階西庄、丹波國片野庄、丹後國志楽庄、因幡國岩井庄、味野廣瀬兩郡、伯耆國長江東郷兩庄、出雲國安井郷、來海庄、大田庄、石見國吉賀郡、筑後國儲問庄、肥後國八代庄、播磨國鵤庄之事、守先例如元可令領知給之状如件
   暦應三年十一月廿四日     尊氏
     吉見右兵衛權佐殿

吉見家譜によれば、この文書は「古代より御伝来之儀につき、写置候事」とされているが、この時期石見吉見氏がこれらの所領を安堵されたとするのは疑わしい。可能性があるとすれば能登吉見氏以外に考えられない。

その後の岩井庄と吉見氏の関わりは明らかではありませんが、15世紀半ばになって漸く因幡における吉見氏の存在が史料によって確認されます。すなわち、『康正二年造内裏段銭并國役引付(康正引付)』に、吉見弥二郎が高野郷小田保内で段銭弐貫参百卅五文を上納した事が見えます。康正引付は、康正2年(1456)に幕府が内裏造営の為の段銭を徴収した際、その所領と領主名を記したもので、吉見氏が岩井庄内の小田保を所領としていたことが明らかとなります。この史料に現れる吉見弥二郎は、因幡吉見氏の祖とされる家朝にあたると思われます。

●『康正二年造内裏段銭并國役引付』●
一、 弐貫参百卅五文  吉見弥二郎殿  因幡高野郷
                    小田保段銭

また、因幡吉見氏は能登吉見氏と同じく幕府奉公衆の一員でしたが、『永享以来御番帳』の一番衆・『文安年中御番帳』の在国衆として見える吉見伊豫守が家朝にあたると考えられます。「在国衆」とあることから、文安年間(1444〜1448)までには、家朝は京都を離れ所領の因幡国小田保に下向していたと推測します。

因幡吉見氏の在地領主としての所領支配の実態は殆ど明らかになっていません。『因幡志』『因伯古城跡図志』などによれば、吉見氏は延興寺と大谷に跨る姥ヶ谷城(延興寺城・大谷城)を居城とし、外邑(外村・殿村)に居館を設けていたようです。外邑には「美女谷」「鍛冶谷」「高谷屋敷」など、城下集落の存在を思わせる地名が残っています。また、吉見氏の被官として田中・村井・瀧山・西垣の諸氏があったことが伝えられています。

吉見氏の所領支配の一端を窺える史料として、「田中文書」が挙げられます。田中氏は池谷・延興寺両村にまたがる「楽々賀名」(さゝか、サヽカ、篠加などとも記される。現在の池谷内佐坂付近。)を代々伝領した一族で、吉見氏の被官という田中氏と同一とみられます。同文書によれば、寛正3年(1462)8月4日吉見政家は「弥兵右」なる者に対して「さゝか半名」を宛行っています。この頃政家は奉公衆として京都にあったとみられ、現地には代官を置いていたと思われますが、これが小田保における支配権行使を示す唯一の史料と言えます。