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■■■因幡吉見氏の系譜と事歴■■■

03.奉公衆としての因幡吉見氏

に述べたように、因幡吉見氏は代々室町幕府に出仕し、御番衆として名を連ねる奉公衆の一員でした。『永享以来御番帳』の一番衆・『文安年中御番帳』の在国衆として見える吉見伊豫守は因幡吉見氏の祖・吉見家朝(弥二郎・伊予守)にあたると思われます。

家朝の嫡子政家(弥次郎・兵部少輔)は、その名から将軍足利義政の偏諱を受けたものと考えられます。政家は御部屋衆申次衆を勤めたことが知られますが、そのような役職に就くことは吉見氏としては異例のことで、政家がかなり将軍に近侍し、重用されていたことが窺われます。

蔭涼軒目録』に、寛正6年(1465)今出川殿(足利義視)の使者として蔭涼軒主・季瓊真蘂の下に赴いた吉見兵部少輔とあるのが、政家の史料上の初見と思われます。『長禄二年以来申次記』によると、政家は応仁の乱までは御部屋衆を勤めていたことが判ります。(御部屋衆とは将軍の寝所の宿直をする役職で、番衆の親族や縁者から選ばれた。)

寛正6年(1465)足利将軍家の後継問題が起こります。側近の政治介入や度重なる飢饉や災害など内外の諸問題に直面した足利義政は、完全に政治への意欲を喪失し、隠居を考えるようになっていました。正室日野富子との間に嫡子がなかった義政は、前年実弟で浄土寺門跡の義尋を還俗させ(足利義視、今出川殿)、後嗣と定めました。しかし、富子に実子(後の義尚)が誕生すると、富子は実子への将軍後継を望んだため、騒動となりました。日野富子は山名持豊に、足利義視は管領細川勝元にそれぞれ協力を求め、これに斯波氏や畠山氏の家督相続問題も絡んで全国的な対立(応仁の乱)に発展しました。

義視は細川勝元率いる東軍に属しましたが、応仁元年(1467)8月、周防の大内政弘が上洛するに及んで、圧迫に耐えかねた義視は、伊勢国の北畠教具を頼ります。『応仁記』によれば、宮中務丞・荻野修理亮・飯河孫六・小坂孫四郎等と共に、吉見政家が義視の後を追って伊勢国小倭に赴きました。

文明10年(1478)12月、政家は上野政直と共に申次に任じられました。(申次とは、将士が将軍に拝謁する際にその名を呼び上げ、用件を取り次ぐ役職。)

●『長禄二年以来申次記』●
申次人数之事
  一、 上野刑部少輔政直
     吉見兵部少輔政家
  右両人被召加之
       文明十年十二月二十七日

しかし、理由は不明ですが、そのすぐ後の記事に「吉見暇在国也」とあって、因幡に下向したことが判ります。応仁の乱の影響で、地方では在京の武士達の領地が押領されるなど混乱が続いていたことと無縁ではないと思われます。(例えば、相国寺大徳院領である岩井郡は、応仁の乱以後塩冶信濃守により本役が押領されていた。『蔭涼軒目録』)

その後の因幡吉見氏の奉公衆としての活動は明らかではありません。『宣秀卿御教書案』によると、文明18年(1486)9月、政家の嫡子三郎長家が兵部少輔に任官していますが、奉公衆としての活動は見えません。また、池谷村天満宮の由緒によれば、吉見宮内大輔(年代的に長家の子か?)が幕府に出仕していたことが窺える程度です。