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■■■伊勢吉見氏の系譜と事歴■■■

02.吉見円忠・範景父子の活躍

弘3年(1333年)5月、足利尊氏が京の六波羅探題を攻略、新田義貞が鎌倉を攻略して北条一族を自刃に追い込み、鎌倉幕府は滅亡しました。吉見円忠範景父子も能登吉見氏同様、足利高氏に逸早く呼応したものと思われます。5月24日、足利高氏は吉見円忠に対して、伊勢国の幕府残党を討伐する様に命じています。

●『足利高氏御教書案』●(伊勢光明寺残篇)
(端裏書)『足利殿御教書并吉見殿施行案』
伊勢國凶徒對治事、 書一通進之候、守此旨、可令致沙汰給候、恐々謹言、
   元弘三年五月廿四日      前治部大輔高氏判
    謹上 吉見殿(円忠)

これを受けて吉見円忠は、三重郡内の地頭・御家人達に対して、足利高氏に同心して挙兵するよう促しました。

●『吉見圓忠施行状案』●(伊勢光明寺残篇)
伊勢國可令對治凶徒由事、今月廿四日御教書案文遣之、守御事書之旨、可致祖其沙汰、来月三日以前、小河可令馳参給候、於緩怠之儀者、關東同心之由、可令注進也、仍執達如件、
  元弘三年五月卅日            圓忠
    三重郡地頭御家人中

このように、国内の武士達に出陣を催促するということは、吉見円忠が伊勢国において守護或いはそれに準ずる有力な地位にあったことを推測させます。因みに、この時の幕府方の武将は金沢敦時だと思われます。金沢氏は北条氏の一族で、伊勢国の守護であり、元弘3年2月以来伊勢国に派遣されていました。

建武2年(1335)12月、吉見範景は足利尊氏に従って建武新政府に叛旗を翻しました。先ず12月27日、伊勢国安濃郡久留部山に新政府方の蔵人判官清藤(氏欠く)を攻め、ついで29日にも安濃津で清藤軍と合戦に及んでいます。この『蔵人判官清藤』がどのような人物かは不明ですが、『舞御覧記』や『菟玖波集』に見える『蔵人清藤』と同一人物と思われ、後醍醐天皇の近臣であったと考えられます。(『尊卑分脈』の藤原氏系図に、権中納言太宰権帥藤原為輔の後裔に清藤があって、蔵使と注記しています。)

●『進藤文書』●(楓軒文書纂所収)
注進
伊勢國乙部源次郎政貫軍忠事、建武二年十二月廿七日以來、屬愚息左近大夫将監範景手、勢州於久留部山蔵人判官清藤家人討捕阿曾太郎兵衛尉、追落錦鎧直垂畢、将又同廿九日、於安濃津討捕清藤家人美夫野新三郎之刻、政貫家人蜂河次郎兵衛尉、并鹽見又四郎令討死畢、同三年正月七日、屬範景手馳参于勢多、同十六日於京都神楽岡致合戰之忠、同廿七日於四条河原討捕伯耆守家人、同晦日於三条河原抽軍忠畢、然間範景委細注進之處、於奉行人明石縫殿大夫家、彼一烈注進令紛失畢、而範景暦應三年八月廿六日死去之間、任承及之旨、圓忠所令注進也、若此條偽申候者、可蒙佛家神之御罰候、以此旨可有御披露候恐惶謹言、
   康永三年五月廿八日      二位律師圓忠(花押)
進上 御奉行所

翌建武3年(1336)1月7日、範景は伊勢勢を率いて山城国勢多に進み、足利軍と合流しました。恐らく勢多に居た足利直義・高師直の指揮下に入ったものと思われます。以後約1ヶ月に亘り、新田義貞を始めとする新政府軍との京都攻防戦が展開されました。上記資料によると、範景軍は16日に京都神楽岡、27日に四条河原、30日に三条河原でそれぞれ合戦しています。範景軍のその後の動向は不明ですが、30日未明からの糺河原における合戦で遂に足利方は破れ、足利尊氏は丹波篠山に敗走しました。

これ以後、伊勢吉見氏に関する資料は残されておらず、系図も伝わっていません。『進藤文書』によれば、吉見範景は暦応3年(1340)に没しており、嗣子無く絶家したものと思われます。