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■■■石見吉見氏の系譜と事歴■■■

01.石見吉見氏概説

見吉見氏は能登吉見氏の庶族で、初代吉見頼行が、弘安5年(1282)吉賀郡野々郷(現島根県鹿足郡津和野町)地頭職を得て石見に下向したことに始まると伝えられています。また、当時幕府は元寇警備の強化に乗り出しており、西国に所領を持つ吉見氏も、元寇警備の任務をもって石見に下向したとも言われています。以来、江戸初期に毛利輝元によって滅ぼされるまでの14代約330年間、石見吉見氏は西石見・東長門に勢力を誇りました。

弘安5年に野々郷木曾野に下着した頼行は、永仁3年(1295)、本拠を野々一本松の地と定め、築城を開始します。これが後の三本松城(現津和野城)の前身となりました。頼行は延慶2年(1309)4月28日、59才で没したので、城は2代頼直の手により、正中元年(1324)に完成しました。

元弘3年(1333)2月24日、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、伯耆国船上山から全国の反幕府勢力に鎌倉幕府打倒の綸旨を発しました。その約1ヶ月後、「吉見殿」を大将とする10ヵ国、3千騎の兵が長門探題北条時直を討伐しました。(「博多日記」正慶二年三月廿四日条)この「吉見殿」は頼直とみられていますが、何れにしてもこれが吉見氏の石見・長門地方における史料上の初見と思われます。

後醍醐天皇による建武の新政の崩壊が、約60年に亘る南北朝動乱の幕開けとなりました。南北朝期における石見吉見氏の詳しい動向は不明ですが、他の氏族同様に一族が南朝方・北朝方に分裂していたようです。史料によれば、惣領の頼直は北朝方、その弟とされる八郎頼基及び高津入道道性長幸は南朝方に属していました。その後足利直冬が西国に勢力を持つようになると、吉見氏はいち早くその麾下に参じたようです。頼直の次男とされる伊藤平五郎入道元智が子息弾正左衛門元実とともに、出雲において直冬党として活躍したことが明らかです。

4代弘信の頃から吉見氏は次第に大内氏との関わりを深めて行きます。それは、正平22年(1367)、石見守護となった大内弘世が吉賀郷半済地とし、そのうち「田尻東西」を守護領としたことからも明らかです。こうして、石見吉見氏は本宗能登吉見氏や領家日野氏との関係を希薄なものとし、大内氏の被官となることで、在地領主としての地位を確立して行きました。

5代頼弘は石見吉見氏「中興の祖」と言われますが、石見吉見氏の存在を示す確実な史料も、この頼弘の時代から漸く現れ始めます。応永12年(1405)正月、頼弘は福屋氏兼周布兼宗三隅氏世益田兼家ら石見の諸豪族と神文をもって盟約を交わしました。こうした地域連合を背景に、頼弘は守護領となった吉賀郷に敢然と侵入し、吉賀郷が開発本領であることを幕府に訴え、認められました。更に、吉賀郷の押領に対する能登吉見氏の訴えを退けることで、石見における在地領主制を完全なものとしたのです。

応仁元年(1467)正月、応仁の乱が起こると石見の諸豪族は守護山名氏清に従って上洛し、益田貞兼は大内政弘に率いられて上京しました。当時8代吉見信頼は既に在京していて、乱の勃発とともに西軍に協力したようです。しかし、幕府内部の対立が更に深まると、西軍の最大勢力大内氏の分国に対して攪乱作戦が進められ、応仁2年、大内政弘の伯父入道道頓教幸が長門赤間関に挙兵しました。陶弘護・益田貞兼ら一部の豪族を除き、在国の大内氏諸将は教幸に一味同心し、在京の吉見信頼を通じて東軍に寝返りました。

文明3年(1471)11月、長門嘉年城における合戦で大内教幸・吉見信頼軍は陶弘護の軍勢に破れます。そのため、吉見氏は益田貞兼によって長野荘を奪われ、陶弘護によって開発本領である吉賀郷をも失うこととなりました。応仁の乱が終息して2年後の文明7年冬、信頼は突如陶方の徳佐城を包囲しますが、弘護の援軍のために再び敗退しました。文明9年10月、大内政弘が山口に帰国すると、信頼は遂に前非を詫びて許され、臣従を誓いました。

文明14年(1482)5月27日、大内政弘は山口に諸将を招き、酒宴を催しました。その席上、信頼は陶弘護を刺殺し、自身も内藤弘矩によって討たれました。父祖以来領境紛争をしてきた陶氏の権勢と、応仁の乱以降の吉見家の立場に、信頼が危機感を抱いたことが原因と言われています。信頼は事前に弟の頼興に家督を譲っており、覚悟の上での行動でした。

9代頼興は、吉見家の信頼回復のため、大内義興に従って殆どの合戦に参加しています。その甲斐あってか、応仁の乱時に失った吉賀地方を再び取り戻すことが出来ました。永正8年(1508)8月の京都船岡山の合戦で、頼興が目覚ましい活躍をしたことが吉見家譜に伝えられています。

11代正頼の時代、石見吉見氏は大きな発展を遂げます。天文20年(1551)9月1日、主君大内義隆は陶隆房(後の晴賢)の謀反により、長門国深川の大寧寺において自刃しました。正頼は義隆の姉大宮姫を娶っていたため、義隆とは義兄弟の間柄でした。天文22年10月10日、正頼は三本松城及び嘉年城、下瀬山城などに拠って陶晴賢討伐の兵を挙げます。当時の大内家中にあっては孤立無援の状態でしたが、恩ある主君であり、義弟でもある大内義隆に対する義のために立ち上がったのでした。

天文23年3月、いよいよ陶晴賢は2万8千の兵をもって吉見討伐に乗り出し、長年の宿敵益田氏もこれに呼応して吉見氏を背後から衝きました。4月、三本松城は大軍に包囲され、以後5ヶ月がかりの籠城戦が展開されました。8月2日、遂に力尽きた正頼は、嫡子広頼を人質とすることを条件に、晴賢と和議を結びました。実はこの間、安芸の毛利元就が吉見氏支援を決意し、三本松城に援軍を送り込むとともに、吉見討伐に向かって手薄となった安芸・備後の晴賢の属城を攻略していたのです。

弘治元年(1555)10月、毛利元就は厳島の合戦で陶晴賢を破り、中国制覇に乗り出します。翌年、正頼は人質となっていた広頼を奪還して再び挙兵し、毛利軍に呼応して長門阿武郡に侵攻しました。弘治3年4月3日、大内義長は長府の長福寺において自刃し、ここに大内氏は滅びました。毛利元就はその論功行賞において、正頼の軍功を第一とし、攻略した阿武郡全郡と佐波郡・厚東郡内の地を宛行いました。これ以後正頼は毛利元就に臣従し、主に九州方面で活躍することになります。

12代広頼は父正頼に従って各地を転戦しますが、その分影の薄い印象は否めません。天正14年(1586)4月の豊臣秀吉による九州征伐の際、豊前香春嶽城攻略で軍功を挙げ、秀吉から感状を賜りました。

文禄元年(1592)4月の文禄の役には、病弱の広頼に代り、嫡男元頼が毛利元康の部隊に属して出陣しました。元頼はこの出陣に際して、家臣の下瀬七兵衛頼直に命じて陣中日記を記録させ、「朝鮮陣留書」「吉見家朝鮮陣日記」などの写本として遺されています。元頼は文禄3年6月4日、20歳の若さで没しました。

14代広行は広頼の次男ですが、慶長2年(1597)7月の慶長の役に出陣し、蔚山の籠城戦での奮戦が認められ、豊臣秀吉の感状を賜りました。

慶長3年7月、広行は毛利家を出奔します。原因は長門の所領を巡る思い違いが、毛利家に対する不信感を生んだことでした。これにより、広頼が再び家督します。慶長8年(1600)8月、広行は毛利元康・矢野子夫妻の斡旋により、毛利家への帰参が許されました。しかし、1ヶ月後の関ヶ原の戦いでは密かに家康の御朱印を得るなど、東軍と通じていました。

関ヶ原の敗戦により毛利家の所領は防長2ヵ国に減封となり、吉見家も初代頼行以来の本拠地、津和野を離れました。これに伴い、広行の知行は長門厚狭郡において2千石のみとなります。このことが再び毛利家への不満を募らせる要因となり、慶長9年(1604)広行は再度出奔しました。ここに至って、毛利家では吉見氏の本領を断絶し、吉見家中の者は許された者以外悉く追放となりました。しかし広頼については正頼時代の功績もあって、隠居料1139石が認められました。

元和3年(1617)12月、広長(広行改め)は、14年振りに長門に戻ります。毛利輝元はこれを許し、扶持さえも与えました。広長はこの寛大な処置に感謝し、ひたすら奉公する意志を固めていました。翌年8月、広長は自邸に輝元を招いて、月見の宴を催すことにしていましたが、広長が輝元を毒殺を計画しているとの讒言があり、これを信じた輝元の討手に攻められ、3子と共に自刃して果てました。こうして頼行以来の名門吉見家の嫡流は滅亡したのです。

尚、慶長17年(1612)、広頼は吉川広家の次男彦次郎を嗣子として自らの5女を娶らせて吉見家を相続させており、その子孫は大野毛利家(一門六席)として存続しました。

石見吉見氏略系図