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■■■石見吉見氏の系譜と事歴■■■

10.高津長幸と吉見氏

門探題北条時直討伐に活躍し、南北朝動乱期には石見南朝勢力の中心人物の一人として各地で奮戦した高津長幸(与次、入道道性)は、吉見氏の一族とされています。しかし何れの吉見系図にもその名は現れず、出自は実際のところ不明です。ここでは、高津長幸が吉見一族(但し既に述べたように、石見吉見氏ではなく、能登吉見氏の一族)である可能性が高いと考え、高津長幸一族の事歴をまとめたいと思います。

(1)高津長幸の出自

高津長幸が吉見頼行の嫡男或いは十二男とするものに、『中島氏系図』があります。『中島氏系図』によれば、中島氏は吉見氏5代頼弘の嫡子(一説に弟)九郎三郎頼世を祖とし、初め「高川」を称していましたが、後に高津氏の名跡を継いで「高津」を称し、頼治に至って「中島」を称したとされます。つまり、南北朝時代に一旦絶えた高津氏を、室町時代に復興させたというわけです。

中島氏略系図

『津和野町史』では、この「中島氏系図」は近世における明らかな偽系図としてその内容に疑問を呈しています。実際、吉見家譜によれば、5代頼弘の嫡子頼世は、「九郎三郎」ではなく「二郎、左衛門大夫」を名乗っており、一男子(久寿丸、夭逝)と二女子がありました。また、頼世から吉見正頼と同世代の頼満まで6代あって、明らかに世代数が多過ぎることから、中島氏系図には何らかの作為があることは間違えありません。

一方、弘治2年(1556)の大井合戦で軍功を挙げた岡神三郎益忠が一字を拝領したという吉見頼益は、高津氏(高川氏)6代頼益と同一人物と思われ、また、吉見正頼時代の家臣団名簿に見える高津左近将監は7代頼満と思われるので、この時代に高津氏が存在したことは確かなようです。

高津氏は高津長幸と子息次郎三郎・孫三郎の2代で断絶したとされますが、高津頼益・高津頼満といった人物が、高津長幸の末裔であった可能性もあるのではないかと思います。

(2)高津長幸は吉見一族?

さて、そもそも高津長幸は吉見一族なのでしょうか。系図が遺されていない以上確かなことは言えませんが、状況から見て、吉見一族(能登吉見氏の)の可能性が高いと思われます。

長野荘略図

右の図は石見国長野荘(現在の益田市内)の略図です。長野荘は後で触れますが、益田氏と吉見氏が何世代にも亘って領有紛争を繰り返した地域です。高津郷はこの長野荘七郷(高津・須子・吉田・角井・安富・豊田・横田)に含まれており、元来益田氏の所領でした。(元暦元年十一月、三河守範頼下文)しかしその後、安富を除いて、一旦益田氏の支配からこれらの地域ははずれました。承久の乱後、豊田郷に内田氏が入部したのはその一例です。

高津氏がいつ高津郷を領するようになったかは判りませんが、その苗字を高津と称するのは、高津郷によることは間違えありません。弘安5年(1282)吉見頼行が石見に下向した際、先ず高津に上陸し、途中の白上で一定期間滞在したことは、その時点で吉見氏が高津や白上など長野荘内に何らかの所領を有していたということが考えられます。(05.吉見氏の石見下向その1)それはこの時点で能登吉見氏以外には考えられず、高津氏も能登吉見氏の一族として、既に高津に進出していたと推測します。

尚、高津郷のその後の所領支配については殆ど史料が無いが、正平10年(1355)、高津城における戦功に対する足利直冬の感状が吉河次郎左衛門・永安太郎左衛門・内六郎太郎(周布兼成)等に発給されているが、この時の守将は不明である。次に、嘉慶元年(1387)、足利義満が周布兼仲に高津郷を宛行っている。そして、文明6年(1474)、足利義政が益田貞兼に高津など長野荘内七郷の領家職を安堵している。

「津和野町史」では、高津長幸(与次)は能登の吉見頼隆(十郎三郎)の兄に当たるのではないか、という仮説が述べられています。非常に興味深い仮説ですが、元弘の変(1333年)前後の時期に、高津兵衛二郎入道の名が史料に見え、また、太平記には宮方として備前三石城に馳せ参じた高津(上総)入道浄源が登場します。

●『太平記』巻第十四●
官軍遂二戰負テ、備前國二引退、三石城二楯籠ル處二、當國守護松田十郎盛朝、太田判官全職、高津入道浄源、當國二下著シテ已二御方二加ハル間、(略)

これらの人物は確証は有りませんが、高津長幸の血族とみられ、長幸の系図上の位置づけについては、更に考慮する必要が有りそうです。

高津柿本神社

(3)高津長幸一族の事歴

高津氏の活躍が初めて史上に現れるのは、元弘3年(1333)の長門探題北条時直討伐です。(08.吉見氏の長門探題討伐)後醍醐天皇の綸旨に応じ、高津長幸は嫡男次郎三郎と共に参戦し、吉見氏率いる討伐軍の主力を為しました。この戦功で長幸は「播磨権守」に任じられました。建武2年(1335)正月、北条時直子上野四郎入道が一族の越後左近将監と図って、長門国佐加利山城で叛乱を起こした際も、長幸は鎮圧軍に軍奉行として参加しています。(写真は高津氏が本拠とした高津小山城の址に建てられた高津柿本神社)

建武中興以降、高津一族は一貫して南朝方として行動しました。建武3年(1336)正月13日、益田兼弘・吉河経明の連合軍が高津城を攻撃し、長幸は城を放棄して逐電します。(恐らく三隅氏を頼ったか?)

建武4年(1337)、三隅兼連・高津長幸・内田兼成等の南朝軍は、前年石見守護上野頼兼に攻略された黒谷城を回復し、ついで5月11日、長門国阿武郡に侵出して、小河関所を破り、弥富・福田・宇生賀の集落を焼払い、北朝方虫追政國が守備する賀年城に攻め寄せました。

●『虫追政國軍忠状』(長門益田家文書)●
石見國長野庄惣政所虫追四郎左衛門尉政國申、
 欲早依合戰軍忠、預御一見状、備後日龜鏡間事、
右五月四日、於賀年城致警固、可抽軍忠由、預御教書間、率一族楯籠彼城處、石州凶徒三隅太郎、高津與次以下輩、今月十一日打出阿武郡内、追落小河關所、燒拂彌富・福田・宇生賀以下、同廿二日巳尅寄來賀年城之間、至于丑時、日夜致散々合戰處、左跪射疵、自大手打出、凶徒波多野彦六郎、并難波中務入道、旗二流追落取之、且合戰次第等、驚目候哉、仍預一見状、爲備後日龜鏡、粗言上如件、
    建武四年五月日
                    承候了   周防権守(花押)

この後長幸一族は、前年石見守護上野頼兼によって攻略された美濃郡上黒谷の黒谷城(横山城)を回復し、そこに楯籠ったようです。しかし2ヶ月後の7月4日、上野頼兼の軍勢が押寄せ、長幸は再び敗退しました。

暦応2年(1339)7月、長幸は福屋孫太郎津野神主新田義氏長瀬八郎と共に、邑智郡の市山城を攻撃し、小笠原貞宗・武田弥三郎・土屋彦太郎等北朝軍と合戦に及びました。(市山合戦。南朝勢は敗退。)

暦応3年(1340)7月、石見守護上野頼兼は石見南朝方の拠点豊田城(守将:内田致景)攻略の為、高津川を隔てた丸瀧に布陣しました。(この時迄に、長幸は高津城を回復していた。)

豊田城合戦関係地図

それから1ヶ月、益田氏・吉河氏の他、長門、周防からも北朝方の精鋭が到着し、豊田城の攻撃を開始しました。この状況に、長幸は嫡男次郎三郎と高津城を出て豊田城に駆け付け、更に日野邦光・新田義氏・津野神主・三隅兼連らも救援の為に馳せ参じました。8月18日夜から19日にかけて、大手口で激戦が展開され、長幸の嫡男次郎三郎は平子重嗣の軍に生捕られ、誅殺されました。

同じく8月19日、北朝勢の一軍は長幸の居城高津城に向かい、城山手で合戦に及びました。恐らく豊田城救援に向かった長幸の留守を狙ったものであり、守将は長幸の次子孫三郎であったと思われます。

2ヶ月に及ぶ激戦の末、10月15日に豊田城が落城しました。長幸は高津城に戻り、日野邦光は稲積城に楯篭ります。北朝勢はこれを追撃し、須子原に陣を張り両城を分断させて、冬を越しました。

興国元年(1341)正月18日、三隅兼連は稲積城に兵粮米を運び込もうとして、途中益田軍と遭遇して合戦となり、結局失敗に終りました。こうして孤立無援となった高津・稲積両城は、奇しくも2月18日、ともに落城します。長幸は次子孫三郎と共に再び逐電しました。(この時も恐らく三隅氏を頼ったものと思われます。)

●『鷲頭弘員注進状』(長門三浦家文書)●
平子彦三郎重嗣軍忠事、去七月廿五日、差進周防國守護代土屋四郎左衛門尉定盛於石州之處、相副重嗣代官平子彌九郎時重、八月三日、馳参大将軍左馬助殿御陣圓瀧、令警固所々役所、同十三日、取巻豊田公藤三郎城之刻、重嗣相加弘員令發向、同十八日夜丑刻、日野左兵衛佐、新田左馬助、高津餘次以下凶徒等、爲後巻致夜討之處、重嗣致随分合戰追拂之、生捕高津次郎三郎、則誅伐候畢、次取陣于豊田原、経數日取移隅河之陣、送両月連々合戦・・・・(略)
十月十五日、攻落凶徒等、同廿三日、發向高津、取陣須子原、至于今致拔群之軍忠候、之條若僞申候者、・・・・(略)
   暦應三年十二月十二日        但馬權守弘員(裏花押)
進上 御奉行所

●『益田兼躬軍忠状』(長門益田家文書)●
石見國御神本孫次郎藤原兼躬申軍忠事
右、去年八月十九日、大将軍上野左馬助殿、打向高津稻積兩城、被召須古山御陣之、兼躬令御共、日々夜々馳向高津餘次長幸之城、毎度抽軍忠畢、仍今年二月十八日夜詰落彼城畢、此段侍所松田左近将監令見知畢、加之自去年八月十九日、迄于今年二月十八日、致警固御陣、抽無貳之忠節之段、且御存知之上者、預御一見状、爲備後證、粗言上如件、
   建武四年二月日
                    承了  花押(上野頼兼)

豊田城に続き、高津・稲積両城が落城し、西石見における南朝勢力は壊滅的な打撃を受け、その後は石見東部が主戦場となります。興国3年(1343),高津孫三郎は波多野彦五郎・河越安芸守・徳屋彦三郎等と三隅城の支城大多和気城に楯籠っていましたが、上野頼兼・益田兼見・吉川実経・武田氏信等の軍勢に攻められ、降伏しました。尚、これ以降高津孫三郎の名は現れません。

一方、長幸は石見東部や北九州を転戦して活躍を続けます。石見に足利直冬が入り、事実上南朝勢力が再結集されると、長幸も直冬党に属しました。

貞和6年(1350)7月、長幸は石見南朝軍と共に、邑智郡市木の御坂峠で吉川実経・武田氏信軍を破り、足利直冬の感状が発給されています。尚、この時長幸と行動をともにしていた一族として、高津二郎左衛門尉の名が見えます。

長幸の一連の戦功に対する恩賞と思われますが、足利直冬は美濃地村東方一方地頭職を長幸に与えています。

●『足利直冬書下』●
下 高津□□□□□(餘二□□長か)幸
 可令早領知石見國□(長)
  野庄内美濃地村東方
  一方地頭職事
右任関東外題可令
領掌之状如件
貞和七年三月廿七日   花押(足利直冬)

以後、観応2年(1351)末まで、長幸の存在を確認することが出来ます。

観応2年12月、長幸の代官が隠岐入道行存(二階堂行雄)の筑前国佐与村(鞍手郡)で狼藉に及んだ。長幸が筑前にも所領を有していたのであろう。