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■■■石見吉見氏の系譜と事歴■■■

11.豊田城の戦いと石見吉見氏

田城は益田市横田町上野の山頂にあった山城で、豊田郷地頭内田氏の居城です。当時の城主は内田孫八郎致景で、子息左衛門三郎致世と共に立て籠もっていました。豊田郷は隣接する安富郷と並んで長野庄内でも最も肥沃な土地であり、豊田城は西石見における南朝勢力の拠点となっていました。

内田氏は遠江国内田庄を発祥とし、承久の乱後、内田致茂が新甫地頭として石見国長野荘内豊田郷を宛がわれた。致茂−致員−致親−致直−致景−致世と続き、致景の代に豊田城を築いたとされる。

豊田城を巡る南北両党の攻防は、暦応2年(1339)10月に始まりました。すなわち、13日、石見守護上野頼兼の命を受けた吉河経明が豊田城に攻め寄せたのです。そして、翌暦応3年8月、南北両党は互いに主力を結集し、約2ヶ月に亘って激戦を展開します。(詳細は10.高津長幸と吉見氏で触れているので、補足的な説明をします。)

(豊田城の戦いに参加した南北両党の主な勢力)

◆北朝方◆
上野頼兼石見守護。北朝方の大将。
松田左近将監北朝方の侍所。
吉河経明邇摩郡津淵村地頭。
益田兼見益田地頭。
鷲頭弘員長門守護代。鷲頭氏は大内氏の一族。
平子親重
平子重嗣
平子時重
周防国仁保庄・多々良庄一分先地頭。
土屋定盛周防守護代。
三井資基長門国御家人。
内田熊若丸長野庄内俣賀村地頭。
吉見七郎(頼直)吉賀郡野々郷地頭。

◆南朝方◆
内田致景
内田致世
吉賀郡豊田郷地頭。豊田城の守将。
高津長幸
高津次郎三郎
高津孫三郎
高津郷地頭。高津城主。
三隅兼連三隅城主。石見南党の中心人物。
周布兼宗周布郷惣領地頭。
津野神主
福屋孫太郎福屋地頭。
日野邦光前石見国司。
新田義氏新田義貞の一族。
吉見八郎頼基能登守護吉見頼隆の弟
吉見六郎入道吉見八郎の一族か?

暦応3年(1340)7月13日、石見守護上野頼兼は豊田城攻略の為、円瀧に布陣しました。それから約1ヶ月、鷲頭氏・平子氏・三井氏・土屋氏など長門・周防の精鋭部隊が到着し、地元勢の益田兼見とその一族、石見東部から吉河経明も参戦して、豊田城を包囲しました。

8月13日、遂に戦端が開かれますが、8月18日になって高津氏・周布氏・三隅氏・福屋氏ら石見南朝軍が、日野邦光新田義氏などの中央派遣軍と連合して、孤立した豊田城の救援に向かいました。

豊田城を包囲した北朝軍を更に南朝軍が包囲する形で両軍の睨み合いが続きましたが、18日夜になって、待機していた南朝軍が夜襲を仕掛け、19日未明まで大手口を中心に両軍入り乱れての激戦が交わされました。(この合戦で高津次郎三郎は生捕られ、誅殺された。)一方、高津小山城で北朝軍を牽制する高津長幸に対抗するため、同日、益田兼見軍の一部は高津小山城の攻撃に向かいました。

●『益田兼躬軍忠状』(長門益田家文書)●
石見國御神本孫次郎藤原兼躬申軍忠事
右今年七月六日、爲追伐當國凶徒、大将軍御發向之間、令御共仕、於丸竹山御陣、致日夜警固畢、同八月十三日、押寄豊□(田)藤三郎致□(景)城、及合□□□、同十八日夜、日野左兵衛佐國光、高津與次長幸以下凶徒、爲後巻寄來之間、翌日於大手致度々□□□追落畢、同日馳向高津城、於山手捨一命抽忠節、□□□田御陣致警固忠切畢、如此所々軍忠之段、侍所松田左近将監令見知之上者、賜御一見状、爲備後證、恐々言上如件、
      暦應三年八月廿七日
                        承了   花押(上野頼兼)

尚、「三井資基軍忠状」には、日野邦光・新田義氏・高津長幸らの名と共に吉見八郎の名が南朝方の武将として見えています。

この吉見八郎の実名は不明であるが、津和野町史を始めとして、吉見家惣領七郎頼直の弟で八郎頼基としている。しかし、頼直の弟に八郎頼基を置く系図は殆ど無い。ここは、いずれの吉見系図にも見える能登吉見氏・吉見頼隆の弟八郎頼基に比定しておきたい。

上野頼兼は南朝方の勢力が予想以上に強力なこともあり、兵を一旦豊田原まで引き上げ、ついで隅河(隅村?)に陣替えしました。そこで約2ヶ月、兵力の増強を図り、反撃の機会を窺いました。こうして陣容を整えた北朝軍は、10月15日一挙に豊田城を攻略し、内田氏は降伏しました。

●『平子親重軍忠状』(長門三浦文書)●
周防國仁保多々良兩庄一分先地頭平子孫太郎親重申軍忠事、
自最初屬御手、去八月十八日、令發向于石州豊田城、小山陣取之處、御敵日野左兵衛佐、高津與次豊田公藤三郎以下凶徒等、夜討寄來之間、捨身命致合戦、同十九日、自山手御敵追拂畢、其後豊田原取陣、致夜縮警固之處、同十月十五日夜、彼城内之凶徒悉責落畢、如此致忠勤之條、後見知之上者、賜御一見状、爲備後證之龜鏡、恐々言上如件、
    暦應三季十月日
                    承了  花押(鷲頭但馬権守)

豊田城の戦いに敗れた高津長幸は自城高津城に戻り、日野邦光は稲積城(益田市水分町)を築き立て籠りました。10月23日、北朝軍は進んで須子原に陣取り、高津城攻撃の体制を整えるとともに、稲積城との分断を図りました。

稲積城は益田市水分町の稲積山山頂にあった山城で、北朝方益田氏の拠城七尾城とは1km程しか離れていない。従って、日野邦光が急遽築城したというのは疑問とされている。

高津・稲積両城は北朝軍に分断され孤立したまま冬を迎えますが、南朝方も何とか両城を救援しようと策を巡らせていました。興国元年(1341)正月18日、三隅兼連は稲積城に兵粮米を運び込もうとして、家臣藤三を派遣しますが、途中益田軍に発見されて合戦となり、失敗しました。こうして孤立無援のまま高津・稲積両城は、2月18日ともに落城しました。豊田城の落城とそれに続く高津・稲積両城の落城で、西石見地方における南朝方の拠点は壊滅的な打撃を受けました。

●『内田熊若丸代藤原兼家軍忠状』(思文閣古書目録百十号)●
石見國長野庄内俣賀村地頭内田熊若丸代藤原兼家申軍忠事、
右、自去年七月十三日豊田城、至吉田宮尾之城、屬大将之御手、致度々軍忠上、今年二月十八日押寄稻積城、追落凶徒日野兵衛佐、吉見六郎入道以下條、無其隠上者、爲預御一見状、恐々言上如件、
   暦應四年七月 日         承了  上野頼兼(花押)

内田熊若丸は内田掃部左衛門尉致義か?致義は建武四年の軍忠状で、俣賀村地頭であることが判る。当初から内田惣領家と対立し、北朝方であった。また、文中の吉見六郎入道は実名は不明であり、比定し得る人物も見当たらないが、吉見八郎の一族か?

一連の合戦における石見吉見氏の活躍については史料が伝わっておらず、判りません。しかし、豊田城落城後、吉見七郎(頼直)は豊田郷の押領を企てたようで、豊田郷地頭職に関して、幕府引付頭人高重茂から問責を受けています。従って吉見七郎も北朝方として活動していたことが推測されます。