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■■■石見吉見氏の系譜と事歴■■■

12.足利直冬と石見吉見氏

田城決戦によって西石見における南北両党の戦いはほぼ収束しました。そしてこれ以後、5代頼弘の時代まで、石見吉見氏の活躍を示す史料は全くと言って良い程遺されていません。従って、『萩藩閥閲録』や『吉見家譜』等に記される3代直頼・4代弘信の事歴は、殆ど信憑性が無いと思われます。

「吉見家譜」直頼条には、貞和5年(1349)足利尊氏の命により、東条某を討ったという記事が見えます。これは実際には南朝方の拠点である河内国東条を人名と誤ったものであり、年紀も貞和3年の誤りです。

貞和3年(1347)秋、楠木正行を中心とする摂津・河内の南朝軍が北朝軍を破った為、足利直義・高師直・師泰は東海・東山・中国・四国の兵を率いて、南朝方の拠点河内国東条に攻め寄せた。長門守護厚東武実がこの合戦に参加している。

次に、文和元年(1352)足利義詮の命により伯耆国に発向し、山名師氏と戦って高名を挙げたとありますが、この記事も当時の情勢から考えて、年紀その他の誤認があるものと思われます。

正平4年(1349)4月1日、足利直冬が長門探題として西下し、備後国鞆の浦に駐留すると、にわかに情勢は動き出しました。

直冬は足利尊氏の妾腹に生まれた子で、尊氏にとっては疎ましい存在であった。その境遇を不憫に思った尊氏の弟直義が自らの養子としたのである。それでも直冬に対する冷遇は変わらず、尊氏との距離を置いた方が良いと判断した直義の勧めもあり、直冬は長門探題として西下することとなった。

石見地方でも南北両党をそれぞれ招きますが、内田氏・高津氏等がいち早く直冬の下に馳せ参じたようです。

●『足利直冬感状寫』(防長風土注進案所収)●
於國致忠節候條尤神妙、向後彌可抽忠義如件、
   貞和六年七月一日           (花押影)(足利直冬)
     高津播磨權守殿

しかし、足利尊氏・高師直、師泰兄弟と足利直義の対立によって直義が失脚すると、直冬は突如備後の尊氏方から攻撃されたので、九州へ渡って肥後を中心に勢力の再結集を図ります。この時直冬に随った武将の中に吉見一族の名が見えます。

●『足利直冬軍勢催促状寫』(肥後相良文書)●
爲誅伐一色少輔太郎入道々道猷(範氏)以下野心輩等、所差遣吉見四郎頼房也、急速馳向、可致忠節之状如件、
    貞和六年三月廿四日          (花押影)(足利直冬)
      相良孫次郎(定長)殿

「津和野町史」では吉見四郎頼甫として頼直の弟頼右に当たる人物と推測しているが、頼房が正しいようである。何れの吉見系図にも見えず、石見吉見氏の一族なのか、或いは西下以前から直冬に随っていた武将なのか分からない。何れにしても、尊氏方の九州探題一色範氏討伐の為に奔走したのである。

これらの動きに呼応して、三隅氏・佐波氏等の石見南朝軍は高津一族とともに尊氏方の吉川実経・武田氏信と戦う等、南朝軍と直冬党の共闘が開始されました。足利尊氏は状況打開の為、高師泰を直冬討伐に向かわせ、先ず三隅城の攻略に当たらせました。しかし、一向に成果が上がらない為、尊氏自ら高師直と共に西下しますが、結局三隅城攻略を断念しました。こうした中、当時の石見の武士達が北朝・南朝・直冬党の3勢力から様々に誘いを受けていたことは、次の例から明らかです。

●『某宮将軍令旨』(思文閣古書目録百十一号)●
致軍忠之由、被聞食了、尤神妙、猶早可抽凶徒對治之忠節者、宮将軍令旨如是、悉之、
    正平六年八月十三日         右少將(花押)
      内田左衛門三郎殿

●『足利直冬軍勢催促状寫』(永田秘録所収石見内田家文書)●
為石見國凶徒退治、所差遣吉見助四郎頼□(平ヵ)、早速馳向、可抽忠節之状如件
    觀應二年八月十五日        (判)(足利直冬)
      内田左衛門三郎殿

この吉見助四郎(頼平)は、直冬の命に従い石見経略に当たったのであるが、石見吉見氏の一族かは不明である。前出の吉見四郎頼房とは同族と思われる。

●『足利尊氏軍勢催促状寫』(石見俣賀文書)●
高倉禅門(直義)没落北國了、早可致忠節之状如件、
    觀應二年八月十六日        (花押影)(足利尊氏)
      内田左衛門三郎殿

既に述べたように、この時期の石見吉見氏の活動は遺された史料が無く不明なのですが、石見吉見氏も直冬党に属していたことを推測させる史料があります。すなわち、吉見頼直の次男と伝えられる出雲小境郷地頭伊藤平五郎入道元智が子息弾正左衛門尉元実と共に、直冬党の佐々木高久に属して出雲国意宇軍白潟橋において北朝軍と合戦に及んでいます。

●『小境元智軍忠状寫』(萩藩閥閲録六十六)●
出雲國小境伊藤平五郎入道元智申軍忠事、
右、去年八月十二日、佐々木六郎左衛門尉相共揚御籏、同十三日於白潟橋、終日合戰忠節、若黨數輩抽軍忠、被疵訖、此等次第同所合戰之仁、土屋辨房并多久中太郎入道令存知者也、次今年正月廿六日、當國御發向之時、馳参致軍忠訖、御着到分明之上者、賜御證判、爲備後證、恐々言上如件、
    貞和七年二月 日              承了

伊藤平五郎入道元智は吉見頼直の次男頼在で、出雲小境郷地頭伊藤弾正忠頼明家を嗣いだとされる。

正平7年(1352)2月、足利直義が鎌倉において急死します。一説には兄尊氏によって毒殺されたとも言われます。何れにしても、直義の死を契機として、九州の直冬支持勢力は相次いで離反し、直冬は太宰府を経て長門に渡りました。そして遂に実父尊氏と決別し、南朝に帰順して、翌年石見に入国しました。石見では従来の直冬党に加え、七尾城主益田兼見が参加することで、直冬党は一大勢力となりました。しかしこの直冬党も1360年代半ばをもって消滅し、山名氏や大内氏の守護領国支配体制が展開されることになります。

この時期の石見における吉見氏の事跡として吉見範直(北朝)の活動が見える。(吉見又三郎範直参照。)

一部の系図・史料には吉見直頼の初名を典直(のりなお)とするものがあり、上記範直は吉見直頼である可能性もあります。