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■■■石見吉見氏の系譜と事歴■■■

13.石見守護大内氏・山名氏と石見吉見氏

法音寺

利直冬の勢力が衰退してゆくと、山名氏大内氏が石見への勢力拡大を図ります。特に大内氏24代弘世は南朝方の周防守護でしたが、文和3年(1354)に北朝方の周防守護鷲頭弘直を討伐して周防国を統一し、更に延文3年(1358)北朝方の長門守護厚東義武を攻めて豊前国に追い落とし、長門守護に任じられました。九州戦略への支障を憂慮した足利義詮は、細川頼之などをして弘世を誘い、貞治2年(1363)遂に大内弘世は北朝方に帰順しました。その翌年、大内弘世は石見侵出を開始して石見南朝勢力の掃討に尽力し、貞治5年(1366)頃、石見守護に任じられました。

大内弘世が石見守護になった当時の吉見家当主は3代直頼と思われますが、石見守護となった大内弘世は、吉賀郡を*半済地とし、そのうち田尻一郷(田尻東西:現鹿足郡吉賀町七日市付近か?)を守護領としました。(写真は直頼が開基となった法音寺)

半済(法)とは、軍費・兵糧米の現地調達のため、荘園・公領の年貢半分を徴収権を守護に認めること。元々は特に戦乱の激しい近江・美濃・尾張の3ヶ国に対し、1年限り認めた時限立法だったが、周辺国の守護も半済の適用を求めたため、次第に適用範囲が拡大した。応安元年(1368)の応安の半済令において、皇族・寺社・摂関領を除く全ての荘園に半済令が適用されることとなる。これが守護の経済力強化と管内の武士(国人)の被官化を進め、守護大名へと発展する下地となった。

吉賀郡が半済地とされてことは、石見吉見氏が守護大内氏の領国支配体制に組み込まれたことを意味します。この点、「吉見家譜」の直頼・弘信条には、大内氏との関わりを示す記述は一切ありません。直頼・弘信父子はこの機会を捉えて、能登吉見氏が支配する吉賀郷の押領を進めたものと思いますが、この押領を正当化する為に、この時期に初めて大内氏と関わったという事実を隠したのだと思います。(後述)

益田家什書」には、石見吉見氏が次第に吉賀郷を押領してゆく過程を記した、次のような文書が遺されています。

●『益田家什書』●
(上略)大内殿石州之守護二而御入候時は吉賀郡を半成にて候中にも吉賀郡之内田尻東西之事は大内殿守護として彼在所を御持候其後大内義弘殿堺合戦以後田尻をも吉見押入郡仕候て須子伊豆守雑掌に上せ其時は山名大夫殿守護にて御座候に愁訴申候へ共依り不事行候吉賀郡に安堵に田尻一郷を如本守護領に進上申候て半成郡を其時より守護領之外は一向に吉見知行仕候さ候程二田尻之領主親にて候下瀬之美濃守参洛仕本領之訴詔申叶罷下候(下略)

この書状は書かれた年次は不明だが、頼家(氏欠く)から益田家家臣下遠江守に当てられた書状である。文中に「田尻をも」とあることから、石見吉見氏による半済地吉賀郡の押領が大内氏の影響下にも関わらず継続的且つ強力に進められたことが窺える。

上記史料によれば、大内弘世が吉賀郡を半済地とし、その内田尻一郷を守護領としましたが、その状況は30年以上続きました。応永の乱(応永6年=1399)で石見守護大内義弘が戦死し、京極高詮を経て、応永10年(1402)守護は山名氏利に交替します。この間にも石見吉見氏(弘信頼弘父子)による吉賀郡押領は進み、守護領である田尻郷にも侵入して、それを旧領として回復しようと図ったのです。すなわち須子伊豆守を雑掌として上洛させると共に、守護山名氏利に対して旧領回復を愁訴しました。この時は田尻郷はそのまま守護領とされ、その外の地は吉見氏の旧領として知行が認められました。しかしその後、田尻郷の領主親である下瀬美濃守が上洛し、幕府に田尻郷の回復を訴えて、遂に勝訴することが出来たのです。。

田尻の領主親という「下瀬美濃守」は下瀬系図には見えないが、下瀬氏の菩提寺宝泉寺の位牌に「前濃州太守友雲善公禅定門霊、応永三十三年両午歳七月八日」とあるのがそうである。宝泉寺の開基とされるが実名その他不明である。

吉見氏の吉賀郡押領は、守護が山名氏に交替してから加速したとも見えます。大内氏が本拠とする周防・長門と吉賀郡は接していますから、その点山名氏に対しては一層強い態度を取ることが出来たのでしょう。