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■■■石見吉見氏の系譜と事歴■■■

14.吉見直頼・弘信・頼弘の惣領支配の強化

見吉見氏は3代直頼の時代に大内氏の領国支配体制に組み込まれ、その後4代弘信・5代頼弘の時代にかけて、本宗能登吉見氏の支配する吉賀郷へ侵出し勢力拡大を図ったことは「益田家什書」で見た通りです。ここでは、「吉見系図」や吉見氏の家臣団の系図から、この時期の石見吉見氏の惣領支配強化を見てみたいと思います。

直頼・弘信・頼弘関係系図

先ず「吉見系図」を見ると、直頼の子息には嫡男弘信の他に、木部の桑原氏の猶子となり、後に長野氏を称した義信(頼久、直行、頼貞)、三宅氏の猶子となった頼実(頼安)、沢田の萩尾城主の直信(義為、弘直、竹内氏祖)、野々下領の柳村を領した頼勝(景信、柳氏祖)、同じく野々下領青原の尾中山城主広円(頼賢、頼利、中屋氏祖)が見えます。

そこで、これら直頼の庶子達が果たして本当に血縁的な繋がりがあるのかどうかが問題となります。「津和野町史」では、これらの庶子は血族ではなく、いわゆる一族郎党という地縁的な繋がりで石見吉見氏と主従関係を結ぶようになった吉賀地方の士豪・地侍としています。つまり、当時は荘園制が崩壊してゆく過程で、所領を庶子に分割相続させるのではなく、惣領支配を強化することで一族を結束させ、分裂の阻止を図ったのです。こうした士豪・地侍達は吉見氏との主従関係を誇りとし、その出自を吉見氏に求めたと考えられるのです。

この他にも、石見吉見氏の一族或いは家臣と称する氏族の系図から、石見吉見氏が惣領支配を強化し、勢力を拡大してゆく過程を読み取る事が出来ます。そしてこの中には、元々能登吉見氏の被官として吉賀郡に居住していたと考えれる氏族が含まれています。

吉賀郡関連地図

(1)横田氏(吉見頼隆後裔、七日市能美山城主)
横田氏は石見吉見氏初代頼行の弟頼挙に始まるというが、その系図を見ると、能登吉見氏頼隆の後裔となっている。元々美濃郡横田を領して横田を称し、正中年間に七日市能美山城に移ったようである。石見吉見氏側の記録では、初代頼行没後、頼直の後見となった頼挙が本家押領を企み、頼直の軍勢に誅殺されたことになっている。恐らく横田氏は吉見一族ではなく、元弘の乱以前から長野庄・吉賀地方にいた能登吉見氏の被官であった可能性が高い。応永32年頃の能登吉見家貞の書状に「当方被官人なかい横田」とある横田に当たると思われ、この当時まだ石見吉見氏の支配を受けていなかったようである。

(2)澄川氏(平重盛後裔、吉賀郡上領有飯邑八ヶ迫住)
澄川氏は美濃郡澄川郷発祥で、平重盛の後裔と称する氏族。「澄川家系図」では、8代盛政に「吉見氏に従い度々戦功有」、10代盛清に「鹿足郡上領有飯邑八谷迫住 正中年間吉見隆頼(恐らく頼隆の誤り)に属し功有 応永三十癸卯年吉賀十五町歩知行 茶臼山築城」と記す。

(3)澄川氏(吉見頼忠猶子、吉賀郡上領河内住)
「吉見澄川伝来系図」によれば、初代頼繁は実は能登国鳳至郡土田庄を領した土田氏の一族で、吉見頼忠の猶子となり、吉賀郡上領河内注連川村)に下向したとしている。注連川村と言えば、建武2年(1335)吉見頼隆が一族宗寂にその管理を任せた地であり、澄川氏もまた能登吉見氏の被官(代官)として石見に下った一族と思われる。居城は大炊城及び獅子丸城。「吉見系図」では、頼行の4男を澄川頼重(四郎、入道宗寂)とする。

(4)上領氏(吉見頼行3男、吉賀郡上領住)
初代頼見は吉見頼行の3男とされているが、「萩藩閥越録」所収の上領氏系譜では、頼見は初め近江草野庄に居住し、その後戦功により足利義満から三河国上領を賜って上領を称したとする。三河では吉見家門の宗領所を賜ったというから、上領氏は恐らく三河に居住した能登吉見氏の一族だったと思われる。永徳2年(1382)頼見は石見に下向し、政之城に居住したというが、政之城の名は他の史料に見えない。恐らく上領氏の居城であった朝倉の羽生城のことであろう。上領氏が石見吉見氏の被官となったのは、2代頼英の時代、すなわち頼英の娘が石見吉見氏*5代頼弘の妻となるのである。

*「吉見系図」・「上領系図」共に吉見頼弘の妻を高橋刑部少輔師光の娘とし、4代弘信の妻を上領頼英の娘としている。しかし実際は逆であると思う。その理由は別項(吉見弘信・頼弘の妻に関する考察)を参照。

こうして見ると、石見吉見氏がその勢力を本領周縁部から野々郷下領へ、そして吉賀郷周縁部から吉賀郷中心部へと次第に拡大していったことが推察出来ると思います。