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■■■石見吉見氏の系譜と事歴■■■

15.石見吉見氏中興の祖吉見頼弘

見吉見氏5代頼弘は、「石見吉見氏中興の祖」と言われます。すなわち、石見吉見氏では父弘信の代に大内氏の麾下となり、在地基盤の強化と勢力の拡大を図りましたが、それを更に進め国人領主として確固たる地位を築いたのが頼弘なのです。そして、頼弘は石見吉見氏系図に現れる人物の中で、史料によってその存在が確実に裏付けられる最初の人物と言えます。

応永12年(1405)正月、頼弘は、福屋氏兼周布兼宗三隅氏世益田兼家等西石見の諸豪族と神文をもって盟約を結びました。(一揆契状と呼ばれるもの。)これは、守護領国下にある西石見の国人領主達が、その基盤を維持強化する為に、何事も隠すことなく腹を割って談合し、相互扶助して行くことを誓った起請文です。

●『面々かきちかへの文案の事』(吉見家譜別録)●
一、しその事ふつう二なけき申ことゆへともらっきょなんきにおよひ候ハ、  いさゝかも見はなし申ましき事
一、なに事にてもくはしくしそを申候はん事、此中にてたんかう申候はん、  かくし候て申ましき事
一、此中の人をくはうわたくしわつらい二なり候きよこんをいさゝか申まし  き事
一、このなか二万一むりの事をゆふ人あらハ御あやまりのよしを一同せいも  んにてしなん申候ハん二、なをもちいられす候ハゝ、中をたかい申へく  候事
如此申定候うへハ、大小事一人の身のうへハみなの大事と存、せんとにかけ候ていつまても見はなし申ましき事
若此条々偽申事候ハゝ
(以下神文略)
 仍起請文状如件              福屋氏兼(判)
                      周布兼宗(判)
 応永十二年乙酉正月十八日         三隅氏世(判)
                      益田兼家(判)
                      吉見頼弘(判)

この同盟関係を背景にして、頼弘は能登吉見氏が支配する吉賀郷の押領を一気に進めたものと思われます。

応永29年(1422)、能登の吉見家貞の代官は、将軍義持夫人(日野栄子)の御料所である吉賀郷上領・中領・下領、野々下領等について、「木部一類(石見吉見氏)」による押領が続いていると幕府に訴えました。

●『益田家什書(一二)』●
  益田左近将監殿(益田兼理)      沙弥道端(畠山満家)
吉見右馬頭代申、石見國吉賀上領・同中領・同下領、野ゝ下領才事、爲御臺御料所、先ゝ施行之處、木ァ一類才押領未休云ゝ、頗招罪科歟、早退被妨、三角右馬助相共莅在所、沙汰居御代官、便宜事才、可致合力之由、所被仰下也、仍執達如件、
   応永廿九年十一月十八日    沙弥(花押)(畠山満家)
    益田左近將監殿

これによると、管領畠山満家は石見吉見氏による御料所押領を罪科と認め、益田兼理に対して三隅助信と協力して、速やかに石見吉見氏の押妨を退けるよう、命令したのです。この書状は翌年4月3日に益田兼理の下に到着しますが、兼理は幕府の意向を受けて「雖可致忠節候」(忠節を尽くすべきではあるが)、「吉賀郡於当国者、難所之事候之間、各不及料簡事候」(吉賀郡は当国の難所で、簡単には解決することが出来ない地域である)と返書しています。

益田兼理が吉賀郡を「当国の難所」とする理由は、吉賀郡がかつて石見守護の半済地となり(1360年代半ば以降)、その後石見吉見氏がこれを鎌倉時代からの本領であると訴えて勝訴し、知行を許されたという経緯がある為ではないかと思われます。(吉賀郡は本来は能登吉見氏の旧領地であるので、この裏には何らかの虚偽や作為があったと思われますが。)つまり、吉賀郡の所領支配は、文字通り取り扱いの困難な問題ということになります。

実際に、この問題は3年を経ても一向に解決される気配は無く、応永32年(1425)5月、管領畠山満家は再度奉書を須宇因幡入道(周布兼宗)に宛てて発しますが、今回は益田氏、三隅氏のみならず、河本桜井福屋介四郎にも一致協力して問題解決に当たるよう命令するものでした。

この間に吉見家貞が益田兼理に宛てた書状によれば、吉見頼弘は御料所の代官の入部を妨げ、上意(将軍に意向)や守護方に対しても強い態度を取っていたようです。そこで家貞は益田兼理に対して、吉賀中領の代官職を与えることを条件に、被官人「なかい(長井?)・横田)を率いて、吉賀郡に入部するよう要請しています。

しかし、幕府や家貞の度重なる働きかけにも関わらず、結局益田兼理はこの問題を辞退しました。

●『益田家什書(五四)』●
御料所就吉賀事、貴方之重被仰出候、御面目之至目出度候、
抑先度御孝書御辞退、上意尓ハ以外御不意候、定其披露守護方よりも傳聞之候哉、於今度、面々合力之被成御孝書候上者、無爲之御注進候ハてハ不可然候、吉賀入部之間ハ、罷下候者共可被加御扶持候、其通被載御孝書候哉、巨細上使之僧可令申候也、恐々謹言、
    (応永三十二年)六月廿六日          家貞(花押)
    益田左近將監殿

この後益田兼理は永享3年(1441)に戦死し、次の益田兼堯に宛てられた西山出雲入道妙盛の書状(年欠)によっても、未だこの問題が解決していないことが判ります。こうしていつしか問題は立ち消え、吉賀郡は完全に石見吉見氏の支配するところとなったのです。

吉見頼弘は幕府や守護方に対して強い態度で臨む一方で、隣接する益田氏との間で生じた豊田郷に関する領境紛争については、起請文をもって所領還付を行っています。

●『吉見頼弘契約状』(益田家什書)●
豊田堺并符山道才事、末代不可申是非候、然豊田親類一人契約候上者、於向後不存才閑、可罷立御役候、若此條僞申候者、日本國大小神祇、別弓矢八幡御罰可蒙候、仍書違状如件、
   應永卅貳年二月 日          頼弘(花押)
    益田殿(兼理)

こうして豊田郷に関する領境紛争と、幕府御料地に関する問題を併せて考えると、最初に見た「盟約」が非常に重要な役割を果たしていたことが推察出来ます。つまり頼弘の吉賀郷押領について、諸豪族は幕府方にも守護方にも与せずに傍観しながら、お互いの紛争については真摯に対応して解決しているのです。

このような政治状況を巧みに利用し、石見吉見氏を西石見の有力国人領主へと成長させた頼弘は「吉見中興の祖」と呼ばれるに相応しい智将であったと思います。