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■■■石見吉見氏の系譜と事歴■■■

03.石見吉見氏の出自その2

見吉見氏の系譜を正確に辿ることは、今となっては不可能です。ただ、能登吉見氏が石見吉見氏を「木部一類」(石見国吉賀郡野々郷木部にいる一族の意)と呼んでおり、石見吉見氏が能登吉見氏の庶流であることは間違えありません。石見吉見氏の出自が不明なのは、系図の作為によって本来の系図が失われたことが大きいと思いますが、それに加えて、応永年間に編纂された「尊卑分脈」で、石見吉見氏の存在をはっきりと確認出来ないことも一つの要因です。

石見吉見氏略系

石見吉見氏の系図を検討すると、それらの人物についておおよそ次のような事が推測出来ると思います。(個々の氏族の系図をいたずらに否定するものではありません。)

(1)石見吉見氏本来の血族

(2)石見吉見氏系図は、本来の出自である能登吉見氏の系図に作為を加えたもの。従って、石見吉見氏の系図に見える人物の中に、能登吉見氏の人物がいるのではないか。

(3)石見吉見氏から分出したとされる氏族の中に、能登吉見氏の一族で後から系図を石見吉見氏に繋げた氏族があるのではないか。

(4)石見吉見氏から分出したとされる氏族の中に、猶子関係によって石見吉見氏の一族となった氏族があるのではないか。

(5)石見吉見氏から分出したとされる氏族の中に、譜代の家臣としての誇りから、先祖を石見吉見氏に求めた氏族があるのではないか。

そこで、初期の石見吉見氏系図の人物(氏族)を上記の基準に照らして分類してみたいと思います。

岡頼治頼行の叔父。頼治は頼行と共に石見に下向。岡氏は富長山八幡宮において祭祀を行った氏族。→(4)
横田頼挙頼行の弟で、美濃郡横田にあって横田氏を称したとされる。しかし、横田系図は頼挙の後、氏頼---詮頼---頼有---頼継---範直--と続いている。明らかに頼挙は能登の吉見頼隆と同一人物である。横田氏が頼隆の直系か不明だが、何れにしても能登吉見氏から出た一族と推定出来る。尚、応永期、能登の吉見家貞の被官として、吉賀郡に横田氏がいた。→(2)
澄川頼繁頼行の弟。「吉見澄川伝来系図」によれば、土田五郎7代孫で、吉見頼忠の養子となったとされる。土田氏は能登の国人で、能登吉見氏の有力家臣。従って実際は能登吉見氏の猶子となり、後に石見に下向したと思われる。→(3)
吉見頼行室西目兵部大輔広廣女。足利尊氏が養女として、頼行に娶らせたとされる。しかし、頼行は1309年に没しているので、年代が合わない。もし尊氏が養女として娶らせたとすれば、能登吉見氏の誰か、恐らく尊氏の偏諱を受けたとみられる氏頼当たりが考えられる。尚、西目氏は大江廣元5代孫の兵部丞公廣に始まる氏族。広廣は系図に見えないが、「廣」の通字と、年代的な面からかなり信憑性がある。→(2)
下瀬頼右頼行の次男で、三河国下瀬庄を領し下瀬と称したとされる。貞和6年(1350)3月、足利直冬の使者として九州の相良孫次郎を味方に誘った吉見四郎頼甫に当たる人物と思われる。年代的に頼行の子ではあり得ない。→一応(1)、(3)の可能性も。
上領頼見頼行の三男で、三河国上領を領し、上領と称したとされる。系図によれば、足利義満に従い、軍功によって三河国上領を賜り、永徳2年(1382)に石見に下向したという。義満との関係と、三河国で吉見家門の宗領所を賜ったされることから能登吉見氏の出身の可能性が高い。年代的にも頼行の子ではあり得ない。→(3)。
吉見八郎頼基頼行の子。石見吉見氏の系図には見えないが、頼直が七郎を称していることから、その弟とされている。能登の吉見頼隆の弟、八郎頼基に当たると思われる。南北朝期、日野邦光・新田義氏と共に、石見南朝方として活動。→(2)
高津長幸何れの吉見系図にも見えないが、吉見一族とされ、与次を称していることから頼行の十二男とされている。美濃郡高津から起こった一族であり、能登吉見氏の一族と思われる。津和野町史の、 長幸(与次)は吉見頼隆(十郎三郎)の兄ではないか、との説が興味深い。→(3)

これ以外の人物についてはよく判りません。私が考える限り、吉見頼行或いは石見吉見氏の血族と見られるのは、七郎頼直と下瀬頼右ぐらいしかいません。

これらの事を踏まえ、私は石見吉見氏は吉見頼業(法名頼円)の後裔であり、頼業=石見吉見氏初代頼行ではないかと推測します。(石見吉見氏の分岐点はほとんどが頼円である。また、「頼業」も「頼行」も「らいぎょう」と読める。)