■■■源範頼の後裔吉見一族の系譜と歴史を紹介するホームページ■■■

タイトルのロゴ

トップ>>サイトマップ>>石見吉見氏の系譜と事歴>>現在のページ

■■■石見吉見氏の系譜と事歴■■■

04.石見下向以前の吉見氏

見下向以前の吉見氏、は能登・三河・武蔵の吉見氏と遡り、範頼の孫為頼に至るとされます。そこで、石見下向以前の吉見氏の事跡ついて、主なものを「萩藩閥閲禄」・「吉見系図伝語」その他からまとめてみます。

「萩藩閥閲禄」によれば、吉見為頼は実は源範頼の二男で、建久5年(1194)安田義定討伐に軍功を挙げ、同6年頼朝の上洛に供奉し、三河守・従五位下に叙せられました。建久8年(1197)能登国に下向しますが、この時為頼に随った家臣は大庭・丸毛・岩松・竹林等の諸氏であったといいます。正治2年(1200)、武田有義討伐に参加し、その功として加賀国能美郡を賜りました。建仁元年(1201)に没し、法名道応頼覚禅定門とあります。

吉見氏の能登移住」で述べたように、この為頼に関する記述は年代的に見て、全くの誤りと言わざるを得ません。恐らくこれらの記事は吉見二郎頼綱(小山一族の吉見氏として紹介した)に関する記事と推測します。「吾妻鏡」に、吉見頼綱が建久6年、東大寺再建供養の随兵として上洛したことが見えており、その他の記事の裏付けはありませんが、年代的な矛盾はありません。このことが、吉見為頼と吉見頼綱を同一人物としたり、吉見頼綱が源範頼の子であるというような説が生まれた原因と思われます。ただ、為頼が能登に下向し、その時随った家臣が大庭・丸毛・岩松・竹林等であったことには信憑性があります。石見吉見氏の武蔵以来の家臣として大庭・丸毛が見えています。ただ、吉見氏の能登下向時期は文永年間とみられます。

為頼の子頼国は、始め良円律師と称する山僧でしたが、後に頼円と改めました。その後還俗して式部四郎頼国と称し、建保元年(1213)の和田合戦に軍功があったとされます。(大野毛利家譜ではこの頼国を欠き、為頼の子を為忠としている。)

この頼国(頼円)は吉見系図に見える為頼の末子頼業(法名頼円)と同一人物と思われます。従ってこの記事も、年代的に頼国の事跡ではあり得ません。既に述べましたが、私はこの頼業=頼円が石見吉見氏初代、頼行ではないかと推測しています。

頼国の子為忠については全く事跡が伝えられていません。ただ優れた武将で歌人であったと伝えるのみです。後に頼茂と改名したとあり、これは吉見系図に見える頼業の子、十郎頼茂を意識したものと言えます。大野毛利家譜ではこの為忠の代に能登へ下向したとしています。

為忠の子頼忠は、日野家を通じて「禁庭を守護すべし」との綸旨を賜り、文永8年(1271)兵を率いて上洛しました。その際、亀山院から三河守・従五位下に叙せられ、検非違使別当となったとされます。また、文永11年(1274)能登国において、子息頼行とともに軍功を挙げました。

津和野町史では、文永8年の上洛は、御家人に義務づけられた10年に一度の京都大番役とし、「亀山院ヨリ任三河守」は、北野社文書でその史証が裏付けられるとしています。また、文永11年の能登における軍功は、蒙古襲来とともに活発となった国内のいわゆる「悪党」の鎮圧に関するものであろう、と推測しています。私は「北野社文書」に見える吉見三河守は吉見為頼(その子頼宗の可能性も)であり、従って頼忠=為頼であろうと考えています。

頼忠の子頼行は幼名を能登太郎といい、式部四郎・三河守を称しました。始め三河国設楽を領し、三河に住んでいましたが、後に父頼忠のいる能登に移住したとされています。文永11年(1274)、能登における悪党鎮圧に、大いに軍功を挙げました。そして8年後、弘安5年(1282)に石見に下向することとなるのです。

頼行が「設楽」を領していたとしているが、その史証はありません。なお、吉見家譜所収の暦応3年11月24日付、吉見右兵衛権佐宛「足利尊氏安堵状冩」に「志楽庄」が見え、志楽は設楽に通じますが、丹後国の地名です。

このように、「萩藩閥閲禄」や「吉見系図伝語」に伝わる吉見氏初期の記述には年代的に信頼できるものはあまり有りません。頼忠あたりの記述から漸く年代的な整合性がとれてきます。これも、石見吉見氏の系図が作為され、世代数が合わなくなった結果と言えると思います。