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■■■石見吉見氏の系譜と事歴■■■

05.吉見氏の石見下向その1

見吉見氏初代頼行が能登から石見に下向したのは弘安5年(1282)のことと伝えられています。その契機となったのは、文永11年(1274)及び弘安4年(1281)の2度に亘る、元軍の襲来(文永の役弘安の役)でした。元軍の再来に備える為、石見国の所領に赴き、その警備に当たるよう幕府から命ぜられたのです。

●『萩藩閥閲禄』(頼行条)●
(前略)弘安三年蒙古元ノ使壮世忠ヲ殺シ玉フニ依テ、同四年五月廿一日蒙古之兵船西藩へ来、八月朔日神風吹テ賊船ヲ破ル、此時ニ当テ武勇之将ヲ択ンテ西藩ニ置給フ、頼行中国西藩之旗頭トシテ、弘安五年七月廿日、石見国安堵ノ御教書ヲ賜り、同年十月三日石州下向、(以下略)

●『吉見系図伝語』●
(前略)然者其比於中国九州、蒙古警固之守禦人数多被撰置、于時弘安五年七月廿日二惟康将軍之依命、為蒙古警固、石州之内、漸賜拾万石安堵之教書、能登国より同年十月廿三日二石州吉賀江下着也、(以下略)

当時鎌倉幕府は西国に所領を持つ御家人に対して、その分国に赴き、元軍の再来に備えた警備の任務に当たるよう、御教書を発していました。「中国西藩之旗頭」とか「賜拾万石」のように誇張は有りますが、「元寇再警備の為の石見下向」ということは概ね信頼して良いのではないでしょうか。

頼行の石見下向の状況については、「岡隆信覚書」(岡氏は頼行の叔父頼治を祖とする一族とされている)に詳しく記述されています。

●『岡隆信覚書』●
一、先祖三河守頼行朝臣、能登より御入国之砌は、家老七人兄弟一族十三人、郎党三拾六人、其勢百九拾余騎、雑兵壱千余人、出雲国より船二而美濃郡高津湊之御着船、夫ヨリ諸処山賊を打滅し、美濃郡白上村二而九十余日御逗留有之、木部郷、吉賀郡へ御働有之、諸郡之荒地御切開有之弘安五壬午年十二月始而木曽野村二仮屋形を建、功田三百町之守護職として石見一国之惣追捕の勅定を蒙り給へり。
石見下向関係地図

これによると、頼行一行は船で高津に上陸し、白上村に3ヶ月余り滞在した後、吉賀郡野々郷木曽野に向かったことになります。

簡単な地図を掲げましたが、高津も白上村も美濃郡の地名で、いわゆる長野庄と呼ばれていた地域にあります。長野庄は益田氏の勢力圏ですが、その中でどうして頼行が3ヶ月もの間白上村に滞在出来たのでしょうか。恐らく、頼行の下向以前から、能登吉見氏は長野庄内に所領を有していたものと思われます。

高津は、長門探題討伐に活躍する高津入道道性長幸(吉見一族とされる)の本拠地であり、美濃郡横田は頼行の弟とされる吉見頼挙(系図では能登の吉見頼隆にあたるらしい)が本拠とした地とされています。また、この他にも美濃郡には、豊田・美濃地・黒谷のように、後世吉見氏と益田氏との間で領有紛争が絶えなかった地域が散見されます。これらの地は、元々は益田氏の所領だったにしろ、ある時期益田氏の支配から離れ、吉見氏の領有に帰したことがあったのでしょう。

「萩藩閥閲禄」では、今田六郎左衛門という者がいて、先ず今田氏の宿所に居住し、その後一本松城を築いた、とている。これが、白上村に滞在していた時のことを指すのか、木曽野に入部した後のことをさすのか不明ですが、何れにしても、頼行の石見下向に当たって、現地に既に頼行一行を迎える勢力があったということである。