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■■■石見吉見氏の系譜と事歴■■■

06.吉見氏の石見下向その2

行の石見下向の状況については、先に掲げた「岡隆信覚書」によると、「家老七人兄弟一族十三人、郎党三拾六人、其勢百九拾余騎、雑兵壱千余人」であったと言います。しかし、この数字はかなり誇張されたもので、実際には小規模な集団の移動であったと思われます。

(1)兄弟一族十三人
既に述べたように、石見吉見氏の初期の系図には多くの疑問があり、兄弟一族十三人も誰であるか特定出来ません。残された伝承・史料などから推測出来るのは次の通りです。

頼行と頼行夫人
義清(頼行弟?)とその一族
岡頼治(頼行叔父?)とその一族
澄川頼繁(頼行弟?)とその一族

石見吉見氏系図では、頼行の弟に頼挙がいますが、能登の吉見頼隆と同一人物とみられ、含めていません。

(2)家老七人
家老七人については、「吉見系図伝語」に次の7氏が記載されています。(「諸家系図纂」所収の吉見系図には、日隈氏・野村氏を除く5氏を挙げている。)

羽隅氏(文安年中に京都における吉見家の雑掌として見える)
長嶺氏(代々吉見家の重臣)
落合氏
波多野氏(武蔵以来の重代の家臣)
日隈氏
野村氏
水津氏(越後国水津が発祥の地という)

(3)郎党三拾六人
郎党は「家子郎党」の郎党で、家子が主人と血縁関係のある従者であるのに対し、郎党は主人と血縁関係の無い従者を言います。ここでは、上記の家老七人以外の家臣ということになるでしょう。津和野町史に記載されている「吉見正頼家頼侍立」から、頼行と共に石見に下向してきたと推測される家臣を挙げてみたいと思います。(吉見氏初期からの家臣で、その出自が関東・北陸に求められるもの)

大庭氏(相模国高座郡大庭御厨が発祥の地)
丸茂(毛)氏(武蔵以来重代の家臣)
宇佐美氏(伊豆国田方郡宇佐美が発祥の地)
板垣氏(甲斐国山梨郡板垣が発祥の地か?)
後藤氏(鎌倉幕府引付衆・評定衆後藤氏の一族か?)

「津和野町史」によれば、頼行入部当時の野々郷はほとんど未開の土地で、石見移住直後の頼行等主従一同の生活は、かなり厳しいものであったと推察されます。「吉見記」という江戸時代に記された書物は、当時の困窮した生活状況が、「吉見殿の火正月」という諺となって言伝えられてる、と記していますが、これは、別の言伝えを付会させたに過ぎません。

防長風土注進案」(前山代宰判・都濃郡・上鹿野村条)に、

吉見殿の火正月と諺あり、吉見家奢り絶て上下困窮、正月二至て衣食尽き、庭二焼火して飢寒を凌候由

とあり、かつて鹿野村にあった藤掛山城の城主吉見某の奢多の為に村民の生活が苦しくなり、正月になって衣食ことごとく尽き、焚き火をして飢えと寒さを凌いだことを言ったものです。