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■■■石見吉見氏の系譜と事歴■■■

07.吉見頼行と一本松築城

に述べたように、吉見頼行は弘安5年(1282)、吉賀郡野々郷木曽野に下着しました。頼行の石見下向を客観的に裏付ける史料は有りませんが、現在も木曽野地区には頼行関連の遺跡が残っています。

木曽野地区頼行関連遺跡

1.御所屋敷
御所屋敷と呼ばれる3枚の水田が、吉見頼行の居館跡地と伝えられています。「岡隆信覚書」によれば、一本松城が完成した3年後、嘉暦2年(1327)まで、この居館は使用されました。御所屋敷の左手には「鞭柳の碑」という石碑があり、枯れた柳の株跡が残っています。これは、頼行が下向の時に使用していた柳の鞭が根付いたものと伝えられています。また、50m程離れたところには、「吉見の池」と呼ばれる泉があり、かつて吉見家の飲料水として使われていたそうです。

2.頼義社(木薗神社)
木薗神社は元々頼義社と呼ばれていたもので、頼行が始祖源範頼の霊と、祖源頼信頼義義家の3霊を合祀したことに始まります。そして時代が下って寛永4年(1627)、神祇大夫岡盛兼が頼行以下、吉見家歴代の霊を合祀しました。

3.吉見家墓
御所屋敷の向かい側、「源流寺の下の台」と呼ばれる所に、吉見家の墓と伝えられる宝篋印塔と五輪塔、計4基が遺されています。この内、宝篋印塔は頼行夫人の墓といわれています。頼行の墓も当初はここにありましたが、源流寺が一本松城下に移転した際(興源寺と改号)、一緒に移されました。

頼行の室は西目兵部大輔廣在女で、足利尊氏が自分の養女にして頼行に娶らせた、とされています。しかし既に見たように、頼行 が足利尊氏の養女を娶ることは年代的にあり得ません。実際には、まだ能登にいた頃に近隣の武士団の娘を娶ったのではないでしょうか。

津和野城(三本松城)石垣

入部当時の木曽野は未開発の地でしたが、頼行が敢えて木曽野を選んだのは、未だ領主としての地位が確立していない時点で、周辺の脅威からの防禦という目的があった為でしょう。実際、木曽野は四周を山に囲まれ、東西に交通路があるのみという防禦上絶好の地だったのです。ここを本拠に、頼行は一族郎党と共に私領の開発を進め、土着の地侍達を家臣に組み入れるなど、領主としての地位確立に邁進していったことでしょう。

入部から13年後の永仁3年(1295)、頼行は野各々一本松の地を新たな本拠地と決め、築城の為の縄張りを開始しました。(写真は大手側から見上げた津和野城本丸石垣)

中荒城

城は2代頼直の時代、正中元年(1324)に完成したと伝えられます。実に30年もの歳月をかけた事業でしたが、当初の城は、法音寺の裏山の頂上及び山麓に削平地を段階上に造った防塁のようなものでした。それは三本松城の見張城である中荒城のあった場所とされています。その後、断続的に城の増改築が行われ、いわゆる後に三本松城と呼ばれる城が完成したのは、15世紀前半頃と推定されます。

この野々一本松の地も山城の立地条件としては格好の土地で、東・南・西を津和野川がめぐって内堀となり、山容は急峻で断崖となっており、攻めるに難く守り易い天然の要害でした。このような土地を本拠として選んだことは、頼行が武将として優れた能力を持っていたということでしょう。

「岡隆信覚書」によれば、頼行は延慶2年(1309)、59歳で没しました。

●『岡隆信覚書』●
頼行公(略)五十九才、延慶弐年巳酉四月廿八日死去云々、御墓は源流寺之下之台二有之、北之方御塔御一所也云々

頼行の墓は現在津和野町後田の興源寺にあり、後世の銘文ですが、(表)興源寺殿厚楽義全大居士、(裏)延慶二年四月二十八日吉見頼行、と彫られています。

「萩藩閥閲録」「吉見系図伝語」を初めとして、殆どの史料が頼行の建武3年1月27日京都戦死説を伝えている。「閥閲録」に見える文永11年(1274)の能登における軍功が仮に15、6才の頃だったとしても、建武3年当時の年齢は75才を超えており、真実とは到底思えない。これも後世の系図改竄の際の産物と考えられる。