■■■源範頼の後裔吉見一族の系譜と歴史を紹介するホームページ■■■

タイトルのロゴ

トップ>>サイトマップ>>石見吉見氏の系譜と事歴>>現在のページ

■■■石見吉見氏の系譜と事歴■■■

08.吉見氏の長門探題討伐

中元年(1324)一本松城を完成させた吉見頼直は、嘉暦2年(1327)木曽野の居館を引払い、一本松城に入城しました。新たな居館は一本松城大手に当たる喜時雨に設けられ、津和野川を挟んだ対岸の高田には家臣達の居館を配しました。

このように、当初の大手は城の西側、喜時雨方面であった。時代が下り、吉見正頼の代後半以降に城東側を大手とし、新たな城下町を建設する計画が始まったものと思われる。

こうして、初代頼行の木曽野入部から45年、地頭吉見氏の所領支配の基礎が一応整ったと見ることが出来ます。元々、頼行・頼直・直頼・弘信の4代については、その活動を示す客観的な史料は皆無と言ってよい程遺されていない吉見氏ですが、この時期漸く石見における吉見氏の存在が明らかとなります。

元弘3年(1333)閏2月、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、伯耆国に名和長年を頼り、船上山に行在所を設置しました。天皇は船上山から全国の武士に向けて倒幕の綸旨を発します。「萩藩閥閲録」「吉見家譜」によれば、3月24日、吉見頼行は後醍醐帝から次のような綸旨を賜ったと言います。

●『吉見家譜』●
今度朝敵高時ヵ一類、北条上野前司直元近日伯州エ発向之由依之使頼行、為被等討手之大将、唯今所被差向也、早引防長芸石之軍士、可致直元征伐之策者也、綸旨如此、仍執達如件
     元弘三年三月廿四日              左少将奉之
       吉見三河守殿

文中の「北条上野前司直元」は長門探題北条時直の誤りですが、北条時直が近々伯耆国に発向するので、頼行を討手の大将として防長芸石の武士を率いてこれを討伐するように、という内容の綸旨です。

既に述べたように、吉見頼行は延慶2年(1309)に没しており、この綸旨も後世に作られた偽書の一つです。しかし、吉見氏が大将として長門探題北条時直を討伐した史実は、次の史料により明らかです。

●『博多日記』(正慶二年三月二十四日以下の条)●
二十四日、如風聞者、北国ヨリ高津道性ヲ大将トシテ、十ヶ国兵ヲ相具、長門ト石見ト堺三隅ニテ責下云々、
(略)
同日(二十九日)、自長門早馬到来、石見国ヨリ吉見殿ヲ大将ニテ、三千騎ニテ向間、大峯ト云所ニ、豊田厚東以下勢ヲ被向、二十九日卯尅ニ、矢合告来、
(略)
一日、弾正次郎兵衛尉、去月二十八長門ニ越之処、今日帰参畢長門ノ大峯ニテ合戦及度々云々(略)
同日、自門司関、三川殿ニ告申之、長門国厚東、由利、伊佐人々与力、高津道性者一日辰時、押寄長門殿館畢、堀ヲホリ切、カイタテヲカキタル間、無左右不打入、寄手射シラマサレテ引退、道性子息、厚東子息、痛手ヲ負畢、敵軍寄、時ノ声ヲツクル間、見之告申云々(略)

「博多日記」は元弘3年(正慶2年)3月24日から4月7日までの九州探題及び長門探題の軍事行動について記録したもので、九州探題の置かれた博多において書かれた幕府方の記述である。大将「吉見殿」の実名を欠いているが、吉見頼直か、もしかしたら能登吉見氏の可能性も考えられる。

一本松城を発した吉見軍は陸路山陰小路を三隅まで進み、高津を発した高津道性は海路三隅に上陸して両軍合流したものと思われます。3月29日午前6時頃(卯尅)、美祢郡大峯まで進軍した吉見軍は、長門探題北条時直が派遣した豊田氏厚東氏以下の軍勢と合戦に及びました。

長門探題討伐関係地図

しかし、長門国内で勢力を誇る厚東武実は、予てから長門探題による支配を快く思っていなかった為、高津道性の勧めに応じて、一転して探題に叛旗を翻しました。こうして厚東氏影響下にあった厚狭郡・美祢郡の地頭が全て吉見軍に合力した為、探題軍は長府に退却せざるを得なくなりました。

●『正慶乱離志』●
長門国厚東・秋吉・岩永・伊佐・由利・アツ・アサ・マツヤ・河越皆参先帝御方云々

勢いを得た吉見軍は4月1日、長府の長門探題館に押し寄せますが、堀切・掻楯等で堅固に防護された探題館は、容易に攻め込む事が出来ず、苦戦を強いられます。この時の合戦で、高津道性の子息次郎三郎、厚東武実の子息武村ともに重傷を負い、戦列を離れました。また、2日には九州探題から援軍として送り込まれた日田肥前権守入道・筑前宗像大宮司や豊前国の諸将が探題館に入り、防戦に努めました。

ところが、3日になり、これまで探題が股肱の臣と頼んでいた豊田種藤種長父子が離反し、探題館を攻撃した為、北条時直は探題館を放棄して逐電しました。

逐電した北条時直は、当初船で東上するが、六波羅探題が滅亡したことを知り、九州探題を頼ろうとした。しかし九州探題北条英時も自刃した為、5月26日少弐氏・島津氏に依って降伏した。

「吉見家譜」によれば、この戦功により、吉見氏は北条時直の旧領長門阿武郡を賜ったとし、「萩藩閥閲録」によれば、山城国久世郡・大和国宇陀郡・周防佐波郡を賜ったとしています。(何れも史証は無い)

さて、この吉見氏の長門探題討伐については、「鹿足郡誌」などに次のような伝承が紹介されています。

●『鹿足郡誌』●
頼行已に老齢なるを以て病床に端座して恩命を拝し、諸士を定めて事に当らしむ、之に於て其四子志目河城主四郎入道宗寂は陸軍に将となり、第五子七郎之に副たり、第七子高津長幸は水軍に将となり、第六子吉見八郎之に副たり、

これも吉見頼行の建武三年京都戦死説につながるもので、その信憑性は全く疑問なのですが、仮に頼行云々は置いておくとして、その他の人物に注目すると、先ず、志目河四郎入道宗寂は、石見側の系図では頼行の四子澄川頼繁ですが、実際には「入道宗寂」は能登の吉見頼為に当たることが判ります。次に「七郎」は石見の吉見頼直或いは能登の吉見頼隆、「八郎」は能登の吉見頼基、そして高津長幸です。

津和野町史で示唆されているように、長門探題討伐の綸旨を賜ったのが吉見頼行ではなく、能登の「吉見三河守頼隆」であるとすれば、惣領頼隆の命令により、石見吉見氏・能登吉見氏が一族を挙げて、長門探題討伐の先頭に立ったと見ることも出来るのではないでしょうか。

高津を含む長野庄に能登吉見氏が所領を有していたのではないかということは既に述べた。吉賀郡志目河(注連川)村は後に、吉見頼隆がその管理を宗寂に任せることになる地で、元々能登吉見氏の所領であった。従って能登吉見氏が綸旨を賜り、長門探題討伐に向かうことは、あり得ることではないか。