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■■■石見吉見氏の系譜と事歴■■■

09.南北朝動乱と石見吉見氏

倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇は建武の新政を開始しますが、その復古主義的、公家中心の政治に対して多くの武士達が不満を抱き、建武2年(1335)10月、遂に足利尊氏が叛旗を翻しました。こうして約60年に亘る南北朝動乱の時代が幕を開けますが、石見国でもその影響を受け、一族が南北両党に分かれて相争う状況となりました。

石見国内南北朝勢力図

先ず、北朝方の中心は石見最大の勢力を誇る益田氏と近隣の庶族、それに邑智郡の小笠原氏出羽氏、邇摩郡の石見吉川氏、吉賀郡の吉見氏が参加しています。更に長門国から土屋氏・平子氏・三井氏・永富氏等が参戦しました。

一方南朝勢力の中心は、邑智郡の佐波氏及び那賀郡の三隅氏周布氏とその一族、美濃郡の高津氏内田氏で、この他に、国外から日野邦光・新田義氏・長瀬八郎等が参戦しました。

こうして見ると、特に石見最大勢力益田氏の分裂が際立っている。南朝勢力の中心である三隅氏・周布氏は何れも益田氏の庶族であり、一貫して本宗益田氏と対立した。これは荘園制が後退し、惣領が一族を支配するという構造も崩れつつあったことの現れである。

吉見氏に目を向けると、史料が少なく判断が難しいのですが、吉見七郎(頼直)は北朝方に属し、高津長幸(入道道性)は上記の通り南朝方の中心人物として各地に奮戦し、その他吉見八郎とその一族と見られる六郎入道も南朝方に属していました。

石見吉見氏については、これを一族の分裂と見るかどうかは、各人物の系図上の繋がりが不明なので判りません。筆者は一応高津長幸・吉見八郎は、吉見一族ではあっても、能登吉見氏の系統に属する人物と推測するので(「03.石見吉見氏の出自その2」)、少なくとも石見吉見氏は一貫して北朝方に属していたと考えます。

足利尊氏が建武政権に離反して3ヶ月、尊氏率いる北朝方と新田義貞率いる南朝方が京都付近で激戦を交えつつあった建武3年(1336)正月、北朝方の益田兼弘・吉川経明の連合軍が、南朝方高津長幸の本拠高津城を攻撃しました。

●『吉川経明軍忠状(周防吉川文書)』●
吉河二郎三郎經明軍忠事
右凶徒高津與二長幸、高津郷小山城郭、楯籠之間、今月十三日、益田彌三郎相共、押寄當城、於大手依致散々攻戰、長幸失爲方、令降参了、如此抽忠節之段、御存知之上者、給御證判、爲備後訴、恐々言上如件、
      建武三年正月日
                          承了(花押)

この攻撃で高津城は落城し、高津長幸は城を放棄して逐電しました。

逐電した高津長幸のその後の足取りは不明だが、高津城を回復し、石見南朝の中心人物の一人として各地に転戦する。

さて、中央では正月27日から30日にかけての一連の合戦で、足利尊氏は敗れ、丹波篠山に敗走、再起を図るため一旦九州へ落延びました。3月、少弐頼尚の協力を得た足利軍は、筑前多々良浜で宮方の菊池武敏を破って九州の体勢を決すると、4月遂に東上を開始します。その間、石見には上杉憲顕を派遣し、与党を募りました。

東上を開始した足利尊氏は、長門守護に厚東武実、石見守護に上野頼兼を任命して、山陰経略に当たらせました。

5月10日、石見守護上野頼兼に率いられた北朝方の軍勢は、美濃郡上黒谷の横山城(黒谷城)に攻め寄せました。横山城には美濃地黒谷地頭波多野氏の一族波多野彦六郎が拠っていましたが、城は攻め落され、城主波多野彦六郎は逐電しました。そしてこの合戦に吉見七郎が上野頼兼軍の軍奉行として参戦していたことが、次の史料により明らかです。

●『久利赤波妙行代公房軍忠状(石見久利文書)』●
石見國久利郷内赤波村地頭三郎入道妙行代子息三郎次郎公房謹申、當國上黒谷城郭仁今月十日大將軍御發向候之間、御共仕、山手打向、致合戰忠節候條、軍奉行吉見七郎・小笠原次郎五郎兩人被見知候事無其隱候上者、爲向後可預御判罷存候、以此旨可有御披露候、恐惶謹言、
      建武三年五月十二日         清原公房 状
進上 御奉行所         承了(花押)(上野頼兼)

横山城があった地は、古来より長門から石見に通ずる交通上の要衝であり、この翌年には高津城を追われた高津長幸が北朝方を攻め落し、しかし程なく再び北朝方の手に落ちるなど、争奪戦が繰り広げられた。

上記史料中の「吉見七郎」は石見吉見氏系図に見える吉見七郎、つまり2代頼直に当たると思われます。後で見ますが、吉見七郎は暦応4年(1341)の史料にも現れ、この時は南朝方の拠点豊田城陥落後、豊田郷の押領を企てたらしく、その件で問責を受けています。これらの事から、石見吉見氏は当初から足利尊氏(北朝)方に属していたとみて良いと思います。