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01.越後国鹿瀬城主の吉見氏

後国蒲原郡小河庄(現東蒲原郡津川町)の鹿瀬城主で、新羅三郎義光の後裔という吉見氏があります。「吉見氏系譜」によれば,義光の4代孫、佐竹次郎光信は越後国に流され、蒲原郡小河庄吉見村に居住したといいます。系譜では光信の嫡男、義広に「吉見治部大夫」と注記しますが、一方、譜文では至徳3年(1384)に鹿瀬村を吉見鹿瀬村と改め、「以降吉見ヲ家苗トス」とあり、いつから吉見を称するようになったのかはっきりとしていません。しかし蘆名氏の重臣富田家(蘆名四天王の1家)の史料「富田家年譜」に、弘安10年(1287)瑞雲山興徳寺建立の際の奉行として「吉見治部少」と見え、恐らくこれが義広と思われます。

義広は初め葦名泰盛に仕えて小河庄上條を領し、葦名領の北方の固めとして鹿瀬城を築城しました。その後、葦名氏の一族で家臣筆頭の金上氏の籏下に配され、以後吉見氏は金上氏に属することになりました。

建武2年(1335)7月、鎌倉幕府最後の執権北条高時の遺児時行が信濃で挙兵し、足利直義を破って鎌倉を占領しました。(中先代の乱)葦名氏は北条氏との関わりが非常に深かった為、盛員・高盛父子が時行軍に呼応しました。時行軍は、鎌倉陥落の報を聞いて駆け付けた足利尊氏軍によって鎮圧され、この時吉見国広は蘆名盛員・高盛父子と共に、相模国片瀬川において討死しました。

天正17年(1589)6月5日、葦名領への侵攻を狙う伊達政宗と葦名義広が摺上原において激突しました。(摺上原の戦い)合戦は伊達政宗の勝利に終わり、蘆名義広は実家の佐竹氏の下に落ち延び、蘆名氏はここに滅亡しました。吉見広盛は金上盛備に従って摺上原の戦いに参戦しましたが、広盛・盛備ともに討死しています。

鹿瀬城主の吉見氏が新羅三郎義光の後裔というのは疑問である。一般に佐竹忠義の子として片岡常晴の室となった娘が知られるのみである。また、佐竹忠義は治承4年(1180)、上総介広常に誅殺されたが、その孫という義広が弘安年間(1278〜1288)に生存しているのも年代的な無理が感じられる。ところで、「佐竹家臣之系譜」「佐竹諸家譜」(佐竹家臣団の系図集)には吉見氏として能登吉見氏(吉見 能登分)が含まれている。私自身は能登吉見氏(或いはその子孫)が佐竹氏の家臣であった事実を知らないが、或いは、佐竹義広を葦名家当主に迎えた勢力の中心が金上盛備であったから、盛備配下の吉見氏がその祖を佐竹氏に求めたのかも知れない。

鹿瀬城主の吉見氏は小河庄上條を領したというが、能登の吉見氏頼が小河庄内の地を領していたことは次の通りである。

●『旧武家手鑑』●(尊敬閣文庫所蔵
越後國小河庄上條之内番條公之外、同下條之内野澤條之事、爲料所所充行也、次能州還補之時、得田之内しなの谷里見奥跡之事、堪忍之條悦入候、最前可相計候、其旨可有存知候也、穴賢々々、
   永徳三年十一月十五日      道源(吉見氏頼)(花押)
  得田加賀介殿  
鹿瀬城主吉見氏系図