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07.紀州藩士吉見家

州藩士吉見家は、その系譜によれば三河の吉見氏の一族です。『紀州家中系譜並に親類書書上げ』に、元来藤原姓にして、俵藤太藤原秀郷を祖とするとあります。すなわち、吉見三郎(次郎)為頼は源範頼の孫(範円法師の子)でしたが、秀郷の後裔吉見三郎頼経の養子となり、吉見家を相続したというのです。

吉見三郎頼経は『結城系図』に小山政光の子として見え、「武州住人、但し養子也」と注記されています。一方、『小山系図』では、小山政光の子として二郎朝信をかかげており、この二郎朝信が『吾妻鏡』に御家人として見える吉見次郎頼綱と同一人物とみられます。次郎頼綱と三郎頼経が兄弟なのか、親子なのか或いは同一人物なのか、判断する手掛かりはありませんが、頼綱は源範頼とほぼ同年代の人物と考えられるので、下の系図では頼綱・頼経を親子としました。

為頼の孫三郎頼有の代に源姓に改め、その後吉見家は代々三河国碧海郡高浜に居住するようになったといいます。吉見喜左衛門経孝は初め吉浜神明宮の神職でしたが、駿府城主徳川頼宣の下臣水野美作守に仕官し、慶長19年(1614)の大阪冬の陣では美作守の子息日向守に従い軍功を挙げました。その後故有って再び神明宮の神職となっていましたが、紀州に封ぜられた徳川頼宣に御目見得し、神職を弟の太郎左衛門経如に譲り、紀州藩士となりました。

経孝の嫡男台右衛門経武は紀州竹林派の弓道の名手です。明暦2年(1656)、京都三十三間堂の大矢数(通し矢)で9343射中6342本を射通して大矢數惣一となりました。その後元禄元年には中小姓頭に取り立てられ、禄高千石となっています。以後経武の系統は代々台右衛門を名乗りました。経武は父経孝の家督相続の際、自らが高禄であることを理由に、家督を弟の佐太平経重に譲りました。経重の系統は代々喜左衛門を名乗っています。

尚、経孝の弟太郎左衛門経如の系統は代々吉浜神明宮の神職を努めましたが、明和年間(1764〜1771)の神職谷左衛門を最後とし、安永年間に絶家しています。(谷左衛門の伯父に吉浜村下組の庄屋を務めた林助がいましたが、寛政元年(1789)に林助が没し、やはり絶家しています。

(南紀徳川史・高浜市史資料(7)を参考とした)

紀州藩士吉見家系図
吉見経孝通称喜左衛門。天正15年(1587)吉見仁左衛門頼宗の嫡男として三河国で生まれる。慶長12年(1607)頃、碧海郡高浜の吉浜神明宮の神職となる。慶長14年、駿府城主徳川頼宣の下臣水野美作守に仕官し、慶長19年の大阪冬の陣では水野美作守の子息日向守に従い軍功を挙げる。その後故有って水野家を去り神明宮の神職に復したが、元和5年(1619)紀州藩に封ぜられた徳川頼宣に御目見得し、紀州藩士となる。万治元年(1658)、吉浜神明宮が火災で焼失すると、その再建に尽力し、高平の地に新社殿を建立した。吉浜の神明社及び八幡社で秋の祭礼に奉納されている「射放弓」は、経孝が伝えたものである。寛文10年(1670)、83才で没した。
吉見経武初喜太郎、後台右衛門。剃髪後順正と号する。吉見喜左衛門経孝の長男。弓術・紀州竹林派の祖。幼少より弓を良くし、紀州に日置流竹林派を伝えた瓦林(尾林)与次右衛門成直に師事した。明暦2年(1656)の京都三十三間堂の大矢数(通し矢)で6342本を記録して大矢數惣一となった。門人に葛西薗右衛門、和佐大八範遠がおり、何れも大矢數惣一となっている。その教えは「吉見順正射法訓」として遺されている。元禄元年(1688)、中小姓頭に取り立てられ、禄高千石となる。宝永3年(1706)、83才で没した。