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03.水戸藩士吉見家

戸藩では、徳川光圀の時代に「水府系纂」という藩士の系譜集の編纂が始まり、現在も彰考館徳川博物館に所蔵されています。先日、水府系纂のマイクロフィルム版を所蔵している茨城県立図書館に、「吉見家」の記載について問い合わせました。その結果、水府系纂の目次では、「第58巻上に吉見軍次直久吉見總太郎直政、第61巻に吉見定之進正方が確認出来き、總太郎直政は直久下と注記がなされているので、実質2家存在する」こと、「第58巻・61巻ともに欠本となっており、系譜の内容は不明である」との回答を頂きました。そこで、幕末、天狗党の乱に関わった吉見總太郎直政家について少し紹介したいと思います。

水戸藩士吉見家系図
吉見直政通称總太郎、治左衛門、軍治。床机廻〜馬廻組〜大番組小納戸役〜小姓頭取〜大納戸奉行〜小姓頭取。天狗党の争乱に関わり、元治元年(1864)秋、藩獄に入る。慶応2年(1865)10月27日獄死した。55歳。
吉見直諒通称喜代八郎。馬廻組〜矢倉奉行。天狗党の争乱に関わり、元治元年(1864)9月入獄。慶応2年(1866)10月25日、他の志士とともに処刑された。29歳。

尚、天狗党の乱とは、文久3年(1864)3月27日に起きた、藤田小四郎武田耕雲斎等を主導者とする水戸藩尊皇攘夷過激派による筑波山における挙兵と、その後の各地の争乱をいう。当初藤田小四郎の勧誘に集まった志士は60人程度であったが、最盛期には2千人を超える規模となった。その後、水戸藩保守派や幕府軍の追撃を受け、京都を目指して下野上野・信濃・美濃と進軍した。元治元年12月、越前新保に至った一行は、間もなく徳川慶喜率いる幕府軍の総攻撃が始まる事を知り、翌年1月17日、823人が加賀藩に投降した。2月、藤田小四郎・武田耕雲斎等352人が処刑され、その他は遠島・追放などの処分が科せられた。