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■■■武蔵吉見氏の系譜と事歴■■■

01.武蔵吉見氏概説

範頼居館跡石柱

蔵吉見氏は範頼流吉見氏の本宗家に当たります。吉見氏の出自については繰り返しになりますが、もう一度述べておきましょう。源範頼は建久4年(1193)8月、伊豆修善寺において誅殺されます。その時、次男範圓・三男源昭は、比企禅尼の計らいで助命され、武蔵国比企郡都幾川村の慈光寺に預けられました。その後範圓の子為頼(初為範)は、下野守護小山政光の養子であった武州吉見出身の吉見三郎頼経の養子となり、吉見家を相続しました。これが範頼流吉見氏の始まりです。

現埼玉県比企郡吉見町御所にある『岩殿山息障院光明寺』はかつての源範頼居館跡地であり、範頼以来5代相次いで居住した地とされています。(その為『御所』という地名が付いている)。息障院は、元は安楽寺と敷地続きでしたが、寛永年間に安楽寺の拡充に伴い、現在地に移りました。

為頼以降、初期の武蔵吉見氏の事歴は全く不明です。推測ですが、為頼は北条朝時(執権義時の子で、後に能登守護となる名越備前守宗長の曾祖父)に仕えていたのではないかと思われます。その関係で、能登吉見氏は能登守護名越宗長と姻戚関係を持ち、能登での基盤を築くことに成功したのではないでしょうか。(詳しくは『能登吉見氏』の項を参照)

息障院本堂

一方、武蔵吉見氏は、北条得宗家の一門領化の進んだ武蔵にあっては、発展の余地が全く無かったと言えるでしょう。その不満があった為か、範頼の4代孫、孫太郎義世は永仁4年(1296)謀反を企てた咎で捕えられ、斬首されます。義世の子中務大輔義宗(後尊頼)は渋川中務大輔直頼の養子となった為、吉見氏の嫡流は断絶しました。この後、武蔵吉見氏の遺領は能登吉見氏が嗣ぐことになります。武蔵における吉見氏の活動は、断片的な史料から、一応15世紀中頃まで確認することが出来ます。

武蔵吉見氏略系図