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■■■武蔵吉見氏の系譜と事歴■■■

02.吉見孫太郎義世の謀反

見孫太郎義世は、源範頼の4代孫で、太郎義春の子です。永仁4年11月20日、義世は謀反を企てたとして幕府に召し捕られ、滝口において斬首されました。また、義世の与党である良基僧正なる者は奥州へ配流となりました。

●『鎌倉年代記裏書』 永仁四年条●
今年永仁四(前略)
同廿日、世間騒動、吉見孫太郎義世依謀叛被召取、良基僧正同意之間、同被召取、義世被刎首、良基配流奥州

●『保暦間記』●
(前略)永仁四年十一月廿日吉見孫太郎義世三河守範頼四代孫、吉見三郎入道頼氏男、謀反ノ聞エ有テ召取ル、良基僧正同意ノ間遠流セラル、義世ハ滝ノ口ニテ首ヲ刎ラレ畢

●『吉見岩殿山略縁起』(安楽寺文書)より抜粋●
(前略)五世孫太郎義世、無双の勇士にして、永仁四年鎌倉に叛く、副元帥平の時宗大軍を発して吉見の御所に押寄責戦ふ、義世勇なりといへども勝事を得ずして戦死せり、憐むべし五代百三十余年にして吉見の御所没落せり、(以下略)
安楽寺三重塔

北条九代記』によれば、義世はかねてから一味同心する武士達を集め、謀叛の綿密な計画を立てていたようです。しかし、いざ決行という段階になって謀叛の企てを密告する者が現れ、義世以下悉く召取られました。義世が謀叛を企てた背景には、北条得宗家による在地勢力排除等の横暴に対する不満があったものと思われます。

 この事件は『世間騒動』とあるように、幕府に少なからず動揺を与えたようです。それは義世が源範頼の4代孫で、源氏の嫡流であるからに他ならず、この事件が諸国の源氏勢力を刺激することを恐れたのです。ただ、これは武蔵の義世一族によって引き起こされたもので、能登においては能登吉見氏が着実に勢力を拡大して行きます(詳しくは能登吉見氏の項参照)。

義世の子中務大輔義宗(後尊頼)は渋川中務大輔直頼の養子となった為、これで吉見氏の嫡流は断絶しました。北条得宗体制の犠牲となった悲運の一族と言えます。武蔵吉見氏の遺領は能登吉見氏が知行し、吉見彦三郎頼宗の長男孫三郎頼有の系統が武蔵吉見氏の祖となっています。(『諸家系図纂』所収の吉見系図は、頼有の孫又三郎範直に『武州吉見祖』と注記しています)。

入来院本「北条系図」では、名越時長女に「平政春室、後嫁吉見三郎」と注記する。吉見氏関連諸系図で、この時期に三郎を称した人物としては、為頼の弟(一説に子)の頼氏(或いは義氏、掃部介、修理亮)が挙げられる。頼氏は、保暦間記によれば、吉見孫太郎義世の父とされる人物である。能登の吉見頼宗の娘は名越宗長に嫁しており、吉見氏と名越氏が重縁で結ばれていたことが明らかとなる。名越氏は北条一門でありながら、寛元4年(1246)の宮騒動(寛元の乱)では、光時・時幸・時長兄弟が、文永9年(1272)の二月騒動では、時章・教時兄弟が、それぞれ得宗家に叛旗を翻した。上記吉見三郎が頼氏であれば、吉見義世の義理の父親は、宮騒動に関わり自害した名越時長ということになる。こうした名越氏との深い繋がりが、義世が得宗家対して謀反を企てた背景にあるのかもしれない。(山形県立米沢女子短期大学準教授・佐々木紀一氏の論文「永仁四年吉見義世謀反の背景」を参考とした。)