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■■■武蔵吉見氏の系譜と事歴■■■

03.吉見孫三郎頼有

見孫三郎頼有は、能登吉見氏の一族であり、吉見彦三郎頼宗の子息です。武蔵の本宗家が断絶した後、頼有の系統がその旧領を嗣いだものとみられます。頼有は頼宗の長子ではあっても、嫡子ではなかったのでしょうか。『系図纂要』では、頼有は義世の甥、すなわち、義世の弟太夫将監義成の子となっています。もしかしたらこちらの系図の方が正しいのかも知れません。吉見義世が誅殺された後、弱年であった頼有が吉見頼宗の養子となった可能性はあります。何れにしても、頼有は能登を離れ、武蔵に居住していたと推察されます。その後、鎌倉末期から南北朝期にかけて、中国・四国地方において活動しています。尚、頼有・頼継・範直の3代は、必ずしも武蔵を拠点としたわけでなく、代官を派遣して領地の管理を行っていたと思われます。頼有の系統が武蔵に居を構えたのは希慶の代だと考えます。

頼有の史料上の初見は、『武家年代記裏書』に見える次の記事です。

●『武家年代記裏書』●
同(正和)四年 (中略)
同四廿二、吉見孫三郎頼有被召上之、家人三人随逐、御使大蔵五郎入・江馬平内兵衛、五月廿六日有赦免云々、 (後略)

去る永仁4年(1296)、吉見義世は謀叛の咎で誅殺されましたが、正和4年(1315)4月22日、頼有もまた幕府に召喚されています。謀叛の疑いを掛けられたものと思われますが、嫌疑が晴れたものか、5月26日には赦免となりました。尚、幕府の使者として派遣された大蔵氏・江馬氏はともに武蔵の武士です。

元弘元年(1331)後醍醐天皇は正中の変に続き、2度目の倒幕計画を企てますが、側近の前大納言吉田定房の密告により失敗(元弘の変)、隠岐に配流されました。しかし、元弘3年(1333)2月24日、後醍醐天皇は隠岐を脱出し、伯耆の船上山から倒幕の綸旨を発します。この時、頼有は中国地方にあって(恐らく石見か?)、官軍として活動していたようです。

3月7日、頼有は伊予の豪族忽那重清等と共に、小早川相順・同景平を安芸妻高山城に攻めています(忽那文書)。因みに、3月29日には『吉見殿』(高津入道道性長幸と同一人物か?)を大将とする10ヶ国3千騎の兵が、長門国大峰において長門探題北条時直の軍勢を攻撃しています。

5月7日、足利高氏が京の六波羅探題を攻略、5月21日には新田義貞が鎌倉を攻略し、鎌倉幕府は滅亡しました。後醍醐天皇は年号を『建武』と改め、公武一体の下での親政政治を目指し、いわゆる建武の新政を開始します。しかし結果的には公家主体の政治となり、武士達の不満は次第に高まりました。建武2年、遂に足利尊氏が後醍醐天皇に叛旗を翻し、建武の新政は崩壊しました。後醍醐天皇は吉野に逃れ(南朝)、足利尊氏は持明院統の光明天皇を擁立(北朝)します。以後60年に亘る南北朝動乱の始まりです。この過程で、頼有は能登の吉見一族同様、武家方として活動していました。

●『吉見頼有軍勢催促状』(武家雲箋所収)●
備後國之凶徒竹内彌次郎兼幸與類、有福城立楯籠由有其聞、早相催一族令發向彼城、可致軍忠状、仍執達如件、
  建武三年十月三日     頼有(判)
    津口
    山内
      一族中

頼有が南朝方の凶徒を攻めるにあたり、備後国の国人に軍勢を催促するということは、頼有が中国戦線においてそれなりの有力な立場にあったことを示唆しています。尚、これ以降の頼有に関する史料は遺されていません。