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04.吉見彦次郎頼武

見彦次郎頼武は何れの吉見系図にも見えず、或いは範頼流吉見氏ではないのかも知れません。しかし、南北朝期の武蔵における吉見氏の活動を示す唯一の史料であり、参考として取り上げておきたいと思います。

暦応元年(1338年)9月、南朝の中心人物北畠親房は東国を回復するため、吉野に来ていた常陸国の武士達を連れて、海路陸奥に向かいました。しかし途中暴風の為、利根川経由で常陸国東条浦に入りました。当初、親房は神宮寺城に拠りましたが、攻め落とされ、阿波崎城に移りました。しかし阿波崎城も落とされた為、当時の南朝方拠点、小田治久の拠る小田城に入城しました。ここで常陸南朝軍と武蔵守護高師冬率いる北朝軍による攻防戦が展開されました。この合戦に武蔵住人吉見彦次郎頼武が参加しています。

●『法眼宣宗書状写』(結城古文書写)●
当所合戦之次第、至今者、御方毎度乗勝、凶徒無勢之間、更不出逢候、御方帰本陣之時着、打出濫妨所々御方打出之時、懸要害、不及合戦候、仍昨日も武蔵国住人吉見彦次郎等降参了、先以目出候、 (以下略)
  七月八日               法眼宣宗(花押影)
謹上 結城修理権大夫殿

この史料は、暦応4年(1341)7月8日、当時小田城に居た北畠親房が、この地方において最も頼みとしていた結城親朝に送った手紙です。それによると、当初は劣勢だったものの、南朝方は次第に勢力を増し、高師冬率いる北朝方を圧倒していたようです。それは高師冬率いる北朝方が、師冬の被官と守護国武蔵の武士達のみで構成されていたからでした。そのような状況で、吉見頼武等の軍勢が南朝方に降伏したのです。尚、同年の秋以降、幕府執事の高師直等による積極的な援助がなされた結果、北朝方の優勢を背景に、和議により小田城は開城されました。北畠親房は関城に移り徹底抗戦を続けましたが、康永2年(1343)11月、吉野に逃れ、東国における南朝方の活動は終息しました。

吉見彦次郎頼武について、『関城書考』は源範頼の子孫である武蔵吉見氏の一族と推測しています。

●『関城書考』●
宣宗ハ親房ニ従テ小田城ニ在ル者ナリ、故ニ其命ヲ受テコノ状ヲ白河ニ贈レリ、郷法眼ト称ス、吉見彦次郎ハ、源範頼ノ後ニテ武蔵ノ著姓ナリ、師冬ニ催サレテ出陣セシニ、コレヨリ後、永ク官軍ニ属シ、四位ニ除セラレシト見エテ、新葉集ニ源頼武朝臣ト載セラレタルハ、是彦次郎ナリト云、尊卑分脈・吉見系図ニハ見エサレト、吉見氏多クハ頼ノ字ヲ以テ名字ニ冠セタレハ、必コノ人ナルヘシ、桜雲記ニハ、正シク彦次郎頼武ト注セリ、所拠知ルヘカラサレトモ、姑ラク一証トスヘシ、(以下略)