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05.吉見又三郎範直

見又三郎範直は、吉見頼有の孫で、右馬頭頼継の子に当たります。『諸家系図纂』所収の吉見系図では、『武州吉見祖』と注記されています。

範直の史料上の初見は、次に掲げる足利義詮が石見国長野荘豊田郷地頭の内田左衛門三郎致世に与えた感状です。この中で範直は軍忠の知見者として見えています。

●『足利義詮感状』(石見俣賀文書)●
於石見國致忠節之由、吉見三郎範直所注申也、尤以神妙、彌可抽戦功之状如件、
   觀應三年八月一二日    花押(足利義詮)
  内田左衛門三郎殿  

内田氏は遠江国内田庄を発祥とし、承久の乱後、新甫地頭として石見国長野荘内豊田郷を宛がわれた。南北朝期には当初は南朝方に属していたが、暦応3年(1340)の豊田城攻防戦で敗れ、北朝に投降した。

当時の西石見の情勢としては、観応の擾乱後、足利義詮は荒河詮頼を石見守護として派遣し、一方、中国探題足利直冬は南朝帰順を決し、事実上の南朝の石見守護と見られる等、南北両党の対立が混乱を極めていました。範直がこの時期に石見で活動する理由は判りませんが、足利義詮の命で石見に派遣されたのではないしょうか。ただ、祖父頼有も中国・四国地方で活動していることから、吉見頼有の系統が西石見(長野荘)に何らかの所領を有していた可能性も考えられます。

範直の西石見における活動は、上記史料の観応3年8月から翌年2月までの4ヶ月という短期間にしか確認出来ません。何れも北朝方の武将として、管内の武士に感状を与えたり、中央への軍忠具申を約束するものです。

●『吉見範直書下』(石見俣賀文書)●
自最初迄至于今、於御方致忠節、度々戦功抜群上者、其旨注進可申候也仍執達如件、
   文和二年正月十日    花押(範直
  俣賀兵庫助殿  

俣賀氏は内田氏と同族で、長野荘豊田郷内俣賀の地頭。『書下』とは、守護以下の武士達が管内の者に出す直状のこと。軍勢催促や所領安堵等の公的な内容を含む。

●『吉見範直感状寫』(永田秘録所収内田家文書)●
内田左衛門三郎致世代三和彦次郎西黒谷城致忠節之由候、尤神妙、其旨注進可申候、□依仰執達如件、
   文和二年二月卅日    花押(範直

尚、一部の系図・史料には、石見吉見氏3代吉見三郎直頼の初名を典直(のりなお)とするものがある。時代的には合っており、上記史料の範直は石見の吉見直頼である可能性もある。