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■■■武蔵吉見氏の系譜と事歴■■■

06.吉見伊予守希慶

15世紀に入ると、武蔵吉見氏は鎌倉公方の近臣として登場します。次に掲げる史料は、『熊野那智大社文書』の中の『檀那名字注文写』であり、鎌倉府における東国の源姓檀那12氏の名字を列記したものです。

●『檀那名字注文写』(熊野那智大社文書)●
吉良殿 名字之地遠州、就有御賞翫 公方様有御門送、
石堂殿 御門送同前、    桜井 名字之地上野、定住鎌倉
畠山 同前、一族上野、徳川其外数多、    渋川 上野国
岩松 上野国    里見 同、名字数多、    鳥山 上野新田
吉見 武州吉見郡在国不断、年一度鎌倉参上、
加子 名字之地下野国、足利庄二加子、定住鎌倉、
一色 知行江州二多有、庶子糟屋、惣領同前之人躰、同田中
今川 名字之地駿河国、

各名字の下には注記として、各氏の本国、鎌倉府との関係等が記されています。例えば、吉良氏と石堂氏は何れも足利一門であるため、名字には敬称が付けられており、鎌倉公方から門送りされる存在であったことが判ります。一方、吉見氏は常に武州吉見の地にあって、年に1度だけ鎌倉府に参上したとされています。

さて、15世紀初頭の関東は、応永23年(1416)の上杉禅秀の乱を機に、一気に動乱の様相を呈し始めました。

関東管領職の継承を巡り、上杉禅秀(関東管領)と鎌倉公方足利持氏はかねてから対立していましたが、禅秀が足利満隆(持氏叔父)・足利義嗣(将軍義持弟)を誘い、これに関東から陸奥にかけての諸豪族を加えて、応永23年10月2日遂に鎌倉公方打倒の兵を挙げるに至りました(上杉禅秀の乱)。これにより足利持氏は駿河に敗走し、禅秀は一時的に関東の実権を掌握します。しかし、幕府及び駿河の今川範政の協力を得た持氏は反撃に転じ、また、禅秀に味方した豪族達が相次いで寝返った為、孤立した禅秀は翌年1月鎌倉雪の下で自刃しました。この後、足利持氏は禅秀に味方した豪族を次々に討伐していくことになり、持氏に対する豪族達の不満は更なる反乱の火種となりました。

応永28年(1421)9月、甲斐の武田信長に謀叛の風聞があり、その糾明の使者として持氏の近臣である吉見希慶が甲斐に出向きました。

●『喜連川判鑑』●
辛丑二十八(応永)、九月、甲州武田右馬助信長反逆ノ聞へアリ、因茲吉見伊予守ヲ指向ラル、信長出合ヒ対談シテ、野心無ノ之旨陳ズ、吉見鎌倉ニ帰る 

甲斐守護武田信満は上杉禅秀の外舅であった為、禅秀の乱では足利持氏と対立し、敗死しました。そのため持氏は武田氏に圧迫を加える為、武田一族の逸見有直の後ろ楯となり、甲斐を横領させ、幕府に有直の甲斐守護職任命を願い出ました。幕府はこれを認めず、武田信光を守護に任命します。信光死後、兄信綱の子信長が武田家の家督を相続しようとしましたが、持氏の反対で実現せず、その子伊豆千代丸が跡を嗣ぎます。しかし逸見氏の勢力は強く、伊豆千代丸は国務を掌握出来ませんでした。このような持氏・逸見氏等国人層対幕府・武田氏の対立の中で、武田信長に対する謀叛の疑いが生じたのです。

応永30年(1423)、常陸国小栗城主小栗満重は応永25年に続き、再び鎌倉府に叛旗を翻しました。満重は上杉禅秀の乱にも加担するなど、一貫して反鎌倉公方の立場を取ってきました。前回の謀叛で所領を没収されたことに怨みを抱き、再び挙兵したのです。

●『鎌倉大草紙』●
応永卅年癸卯春の頃より常陸国住人小栗孫五郎平満重といふ者ありて謀反を起し、鎌倉の御下知を背ける間、持氏御退治として御動座被成、結城の城まで御出、同八月二日より小栗の城をせめらるゝ、小栗兼而より軍兵数多城よりそとへ出し防戦けれども、鎌倉勢は一色左近将監・木戸内匠助、先手の大将として、吉見伊予守・上杉四郎、荒手にかはりて両方より責入ければ、終に城を被責落、小栗も行方しらずおち行けり、 (以下略)

足利持氏は討伐軍を送り、8月2日小栗城を攻撃しますが、大将の一色左近将監・木戸内匠助の名とともに、新手の将として吉見伊予守(希慶)の名が見えています。尚、小栗城は同日夜陥落しています。

上記2つの史料に現れる吉見伊予守について、『後鑑』は吉見範直のこととしている。範直は伊予守を称したとされるが、先に見たように14世紀半ばには既にその活動が見えている。従って年代から見て、本史料の伊予守は範直の子希慶であろう。

鎌倉公方足利持氏は、4代将軍に足利義教が就くと次第に幕府と対立して行きます。その中で、持氏を諫止しようとする関東管領上杉憲実とも関係が悪化します。永享10年(1438)8月、持氏は上杉憲実討伐のため、武蔵国府中に出陣しました。将軍義教は憲実救援のため、駿河の今川範政、甲斐の武田信重、信濃の小笠原政康等に出兵を命じました。翌年2月10日、足利持氏は永安寺で上杉憲実軍の攻撃を受け自刃しました(永享の乱)。『諸家系図纂』及び『系図纂要』所収の吉見系図では、持氏の近臣であった吉見希慶も永享の乱において戦死したと注記しています。ただ、『諸家系図纂』に『永享十年持氏亂之時。爲上杉生害。十五歳』とありますが、十五歳という年齢は誤りかと思われます。