■■■源範頼の後裔吉見一族の系譜と歴史を紹介するホームページ■■■

タイトルのロゴ

トップ>>サイトマップ>>武蔵吉見氏の系譜と事歴>>現在のページ

■■■武蔵吉見氏の系譜と事歴■■■

07.吉見三郎義永

足利持氏の死によって一時鎌倉公方は絶えていましたが、幕府は文安6年(1449)、持氏の唯一の遺児永寿王を赦免し、鎌倉公方としました。永寿王は元服し、足利成氏と名乗ります。しかし、成氏も父持氏同様、関東管領上杉憲忠や幕府と対立します。享徳3年(1453)12月、足利成氏が鎌倉の西御門第に上杉憲忠を招いてこれを誅殺したことから、以後約30年亘る内乱が勃発しました(享徳の乱)。この時吉見三郎(義永)は、成氏の近臣として出陣しています。

●『足利成氏書状(切紙)』(豊島宮城文書)●
就同名仁等事、申上子細被聞食合、可有御落居候、仍武州江被立吉見三郎候、令同道致忠節候者可然候、謹言
    閏(享徳四年)四月二日       花押(足利成氏)
     豊島太郎殿

去る3月3日には、成氏は武蔵府中より武蔵村岡をへて、下総国古河に至っています。以後成氏は古河を拠点に活動しており(従って成氏は自ら古河公方と称した)、吉見義永もそれに随って古河にいたものと推測されます。本史料は、成氏が豊島太郎に対して、武州に出陣する吉見義永に同道する様に要請しているものです。尚、史料では吉見三郎の実名を欠いていますが、年代的な面から考えて、『吉見系図』に見える三郎義永に比定しています。

これ以後の武蔵吉見氏の動向は不明です。成田親泰が延徳2年(1490)忍城を築城する際、一族の別府氏・玉井氏・奈良氏に加え、久下氏・吉見氏・中条氏も駆け付けて協力した、という伝承があるようなので、成田氏の被官となった可能性があります。