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■■■武蔵吉見氏の系譜と事歴■■■

08.渋川氏被官の吉見氏

何れの吉見系図にも現れませんが、備後・摂津・備中などの守護を努め、後に九州探題となった渋川氏の被官に吉見氏が存在します。渋川氏との関係から、或いは吉見中務大輔尊頼(改義宗。渋川中務大輔直頼の猶子となった人物。実父吉見孫太郎義世。)の後裔とも思われるので、武蔵吉見氏のコラムとして掲載することにしました。

渋川氏被官の吉見氏として、吉見弾正少弼氏泰(氏康とも)と吉見昌清の2人が史料によって確認出来ます。

先ず、吉見氏泰ですが、「花栄三代記」応安7年4月28日条で、足利義満の左女牛若宮参詣の御剣役として見えるのが史料上の初見です。従ってこの時は幕府奉公衆の一員であったことが判ります。その後、渋川満頼 の下で、摂津及び備中守護代を歴任しています。渋川満頼は摂津守護就任当時いまだ幼少であり、板倉氏など他の守護代と共に幼い守護を補佐していたものと思われます。以下はその事例です。

摂津国西成郡善源寺庄東方地頭職は、足利尊氏が多田院に寄進したものですが、赤松義則・楠正儀の家人が違乱し、同時雑掌を追放していました。そこで、康暦2年(1380)7月16日、幕府は摂津守護渋川長寿王(満頼)に対して、赤松義則・楠正儀家人等の違乱を停止し、下地を多田院雑掌に付するよう命ずる御教書を発しました。吉見氏泰は渋川満頼からその施行を命じられています。(渋川満頼奉行人連署奉書)

明徳元年(1391)8月28日、管領斯波義将は渋川満頼に対して、東寺領備中国新見庄領家職を多治部備中四郎次郎が押妨するのを停止するよう命じ、満頼はその施行を吉見氏泰に命じました。

●『渋川満頼施行状案』(東寺百合文書)●
東寺領備中國新見庄領家職事、任月廿八日御教書如此、案文遺之、早任仰下旨、退多治部備中四郎次郎押妨、可被沙汰付下地於雑掌之状、如件、
    明徳元年九月六日      在判(満頼)
      吉見弾正少弼(氏泰)殿

備中国成羽庄(三村信濃守跡)は、永徳元年(1381)に足利義満から天竜寺に寄進されましたが、明徳元年(1390)になっても、三村信濃守は「本主」と号して押領を続けていました。明徳(1393)3年6月7日、管領細川頼元は渋川満頼に対して、三村信濃守の違乱を停止するよう命じ、吉見氏泰はその施行を命じられています。

応永4年(1397)、渋川満頼は九州探題として九州に下向しますが、吉見氏泰もそれに随いました。渋川満頼は博多に拠点を置きますが、在地勢力の少弐氏や菊池氏等の反発に遭い、九州探題としての権限を十分発揮することは不可能でした。そこで、渋川氏は肥前国の経営と朝鮮通交に力を注ぐこととなります。

応永4年12月、幕府は橘薩摩氏の庶流、渋江性淳の肥前国杵島郡長島庄内志久村(現佐賀県杵島郡北方町)以下の知行を安堵し、翌年5月14日、吉見氏泰は垣見勘解由左衛門尉・志地主計充宛てにその遵行状を発給しています。従って氏泰は肥前においても守護代の地位にあったと思われます。

●『散位氏泰遵行状』(小鹿島文書)●
渋江下野入道性淳申、肥前国長島庄内志久村以下事、任去年十二月十八日京都御教書并今月十三日御施行之旨、任彼所、如元可被沙汰付下地於性淳之代也仍執達如件
    応永五年五月十四日      散位(氏泰)
       垣見勘解由左衛門尉殿
       志地主計充殿

吉見昌清は氏泰と同族(年代的に氏泰の子か?)で、九州探題渋川満頼の下で、肥前守護代を努めました。吉見昌清については、遵行状などの文書は有りませんが、渋川氏と共に朝鮮通交を行っていた記録が遺されています。

●『太宗恭定大王實録25』●
巳癸十三年 大明永楽十一年 夏四月己酉朔、甲戌(26日)、日本九州節度使及廬心殿使人來獻土物、
丁丑(29日)日本九州節度使源道鎭(渋川満頼)、肥州太守源昌清等、遺人獻土物、求弗祠銅鐘鍾、命皆給之

上記史料は応永20年(1413)の朝鮮通交の記録ですが、この他にも応永22年などに朝鮮通交の記録が見られます。これら史料の中では、吉見昌清は「肥州太守」「能州太守」と肩書きされ、また、中国式に「左将軍」(官位で正五位上に相当)と称していたことが判ります。