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■■■武蔵吉見氏の系譜と事歴■■■

09.常陸国鹿島郡鉾田の吉見氏

常陸国鹿島郡鉾田(現茨城県鉾田市)に、吉見孫太郎義世の後裔という吉見氏が存在します。系図によると、鉾田吉見氏は中世のある時期石崎と改姓した後、明治に至り旧姓の吉見に戻したと云います。鉾田の吉見家には中世以来の古文書等が伝えられていますが、鉾田吉見氏の実像を浮び上がらせる事は難しいようです。そこで、僅かな資料を基に、筆者なりに鉾田吉見氏について考察してみたいと思います。

(1)鉾田吉見氏の出自

鉾田吉見氏系図

鉾田吉見氏系図によると、その祖は範頼流吉見氏の本宗武蔵吉見氏の系統で、永仁4年(1296)謀叛により斬首された吉見孫太郎義世となっています。(但し、鉾田吉見氏系図では義世の通称を八郎とする。)義世の子を十郎義満 とし、一女子を挟んで、九郎次光と繋いでいます。(義満に男子が無く、吉見家を嗣いだもの か?)

先ず、この系図の不審な点として、
1.範頼の子である範円を欠く。
2.人物の通称が尊卑分脈等の一般の諸系図と異なる。
 (為頼=次郎、頼氏=三郎、義世=孫太郎
3.一般に、孫太郎義世の子息は中務大輔尊頼(改義宗、渋川中務大輔直頼養子)が知られるの
 み。
などが挙げられます。

勿論、義世には系図に見えない子息達がいた可能性はあり、これを以て鉾田吉見氏の出自を否定するものではありません。あくまで本系図が後世作られたものであり、源範頼の後裔ではあっても、別に出自が求められる可能性もあるのではないか、ということなのです。

(2)鉾田吉見氏は近江の出身か?

吉見南山(諱頼養、1778-1857)は下総佐倉藩の儒者として有名ですが、その墓碑銘に鉾田吉見氏の出自を示唆する一文があります。

●『南山先生吉見府君之墓』銘文●
(上略)先生諱頼養字伯恭南山其号其祖先日近江世居常州鹿島郡守鉾田堡 屬佐竹候至其孫諱頼茂初仕我不矜公賜二百石(下略)

この銘文によれば、佐倉藩士吉見家の祖先は近江の出で、その後代々常陸国鹿島郡鉾田に居住し、佐竹氏に属していたことになります。「世居常州鹿島郡守鉾田堡」とあるので、その系図関係は不明ですが、佐倉藩士の吉見家が鉾田吉見氏と関係があることは間違いないと思われます。また、「佐竹家臣之系図」「故本 佐竹諸家譜」には、佐竹家臣として吉見氏系図(能登吉見分)が収載されています。

以上のことから、佐倉藩士の吉見家は能登吉見氏の末流で、近江から常陸国鉾田へ移住し、佐竹氏の家臣となったのではないかと推測出来ます。

そこで、鉾田吉見氏に能登吉見氏との関わりを示す史料が遺されているか見てみると、史料目録の中に、源範頼三善常房の花押影と共に、源詮頼の花押影がありました。実際の花押影を見ていないので断定は出来ませんが、「源詮頼」は恐らく能登守護吉見氏頼の嫡男兵部大輔詮頼ではないかと思うのです。これが唯一能登吉見氏との関わりを示す史料で、果たして鉾田吉見氏が能登吉見氏の流れを汲む一族か否かは、不明です。

(3)鉾田吉見氏の歴史

既に述べたように、鉾田吉見氏の実像は、史料が少ない為はっきりとした事は判りません。系図と数点の中世文書から鉾田吉見氏の事歴を推測してみます。

先ず、吉見義世7代孫定延に2子があり、嫡男定吉に「鹿島仕官」と注記されています。つまり、この時期鉾田吉見氏は常陸吉岡城主鹿島氏に属したものと思われます。また定吉の弟定成に「石崎主水」、定吉の子息吉次に「石崎源エ門」と注記があることから、定延の代に石崎と改姓したのではないかと考えられます。

鹿島氏は常陸大掾氏の一族。平安中期、平国香が常陸大掾として常陸国へ下向して土着し、その子孫が代々大掾職を世襲していたが、その職名が転じて家名となったものが常陸大掾氏である。大掾氏一族は鹿島氏を始めとして、常陸国内に広く繁衍し、多くの庶子家を分出した。尚、大掾氏族の石川氏から、那珂郡石崎保を発祥とする石崎氏が出ている。鉾田吉見氏が石崎と改姓したことに何らかの関わりがあるか?

こうして、石崎氏(吉見改め)は以後戦国末期まで鹿島氏・大掾氏と関わりを持つことになります。鉾田吉見氏所蔵文書には、そのことを示す史料が遺されています。

■『(年欠)十一月十六日冨田七郎邦信書状

冨田七郎邦信がどのような人物かは不明。大掾氏一族の行方氏流に富田氏(行方郡冨田)がある。また、鹿島郡徳宿郷(現鉾田市)には富田村及び富田城があった。富田城は城主不明とされるが、鹿島成幹の子徳宿権守親幹の4代孫に秀安があって富田次郎を称している。秀安が富田村を領して富田を称したはずで、富田城主であったと思われる。

■『(年欠)七月三日菅谷之国書状

菅谷之国もその経歴その他一切不明。小田城を拠点とした小田氏の家臣に菅谷氏が見える。菅谷摂津守の娘が小田成治の室となった頃から頭角を現し、その後宍倉城を築き代々の居城とした。その後小田氏の重臣信太氏に養子を入れるなど、益々小田家中での勢力を増してゆく。

■『天文二年三月日大掾清幹感状

前述のように、大掾氏は平安中期に常陸大掾を世襲した常陸平氏の直系で、一族は常陸国内に繁衍した。大掾氏系図を見ると「清幹」が2人いるが、何れも天文年間に活躍する人物ではなく、本感状の真偽は分からない。何れにしても大掾氏は小田氏・江戸氏との三つ巴の抗争の後、豊臣政権下で大名となった佐竹氏に府中城を攻められ滅亡した。また、その他の大掾氏一族も、佐竹義宣の謀略によって尽く滅亡した。

■『鹿島治時兵法伝書

鹿島左衛門大夫治時は鹿島城を追われた義幹の孫で、佐竹氏に従って鹿島城を奪還し、中興の祖となった。鉾田に鉾田城を築き、三男義清を置き、自立的な動きを見せる一族の烟田氏の監視に当たらせた。

このように鉾田吉見氏所蔵文書から、鉾田吉見氏と大掾氏・鹿島氏の関わりを見る事が出来ますが、大掾氏も鹿島氏も最終的に一族諸共佐竹氏の為に滅亡しました。鉾田吉見氏は、佐倉藩士吉見家の伝承のように、ある時期から佐竹氏の家臣となった為、滅亡を免れたのかも知れません。

(4)御成敗式目五十一箇条及び起請文寫

鉾田吉見氏所蔵文書の1つに、文安元年(1444)八月十五日付け奥書のある御成敗式目五一箇条の写しがあります。奥書の内容から、これは飯尾彦六左衛門尉(常房)が、東条近江守の所望に応じて、遺献したものであることが分かります。

飯尾(三善)常房:1422〜1485。室町時代の武人・歌人・書家で阿波の人。常房の祖は鎌倉時代に問注所の執事となった三善康信で、その一族政常が阿波国麻植庄西方地頭職となり、飯尾を称した。常房は足利義政に右筆として仕え、更に細川成之にも仕えた。 応仁の乱で荒廃した京都を嘆き詠んだという「汝ヤシル都ハ野辺ノ夕雲雀アガルヲ見テモ落ルナミダハ」の歌は有名。書道飯尾流の祖。

この写しを所望した東条近江守がどのような人物かは分かりません。常陸国信太郡東條を発祥の地とする大掾氏族の東條氏がありますが、その系図及び史料には近江守は見えません。また、何故吉見家にこの御成敗式目写しが伝わったのか、それも一切不明です。

ところで、寛正年間(1460〜66)に細川成之に仕えた人物に東条近江守がおり、応仁記にもその名が見えます。文明13年(1481)9月、細川成之の家臣東条某と吉見某が相争う、といった記事が見えます。

●『十輪院内府記』●
九月廿四日、細川讃州被官確執事有之、閇籠知恩寺云々

●『大乗院寺社雑事記』●
十月六日、雨下、
一石左衛門下向、讃州之内東條與吉見相論事出来、一家大儀出来、讃州可下向讃(三ヵ)州之由、近日事也云々、

御成敗式目を書写した飯尾常房も阿波出身で、細川成之に仕えていました。ここで細川成之を中心に飯尾常房・東条近江守・吉見某と繋がりますが果たしてどうか。