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■■■幕臣・諸藩の吉見家■■■

04.長岡藩士吉見家

岡藩は、現在の新潟県長岡市地域を中心に、新潟市や中越地方北部、下越地方西部を支配した藩です。元和2年(1616)堀直寄が8万石で入部し、立藩されました。2年後の1618年、堀直寄は越後村上藩に転封となり、替って牧野忠成が長峰藩から6万2千石をもって入封し、以後幕末まで牧野氏の支配が続きました。

長岡藩士の由緒を記録した「諸士由緒記」に吉見家の記載があります。

●『諸士由緒記』●
高百石 新井意住弟子 吉見元仙直方
一 享保十七外科召出 二拾人扶持 同四御高直高百石

長岡藩の吉見家は代々医術をもって藩に仕えた家柄のようで、その後も一族とみられる次のような吉見姓の人物を見ることが出来ます。いずれも蘭学を修めた人物です。

吉見元仙直養・・・大槻玄沢(芝蘭堂)門人。享和2年(1802)5月10日入門。
 吉見三良直温・・・大槻玄沢(芝蘭堂)門人。文化13年(1816)5月17日入門。

天保年間のものとみられる「長岡藩分限帳写」には、「百石 外科 吉見三澤・同雲澤」と記載があり、玉蔵院町に居住していたことが分かります。

幕末の長岡藩の様子を記した「懐旧雑誌」に収録されている文久2年改正「御家中総名順」には、長岡藩医として吉見雲臺(大組 御扈従組、百十石 御医師 玉蔵院町)が記載されています。雲臺は実名を直方といい、仁郷、思斎と号しました。安政6年(1859)雲臺は緒方洪庵(適塾)の門人となり、翌年には松本良順に師事しています。

雲臺は戊申戦争に参加して戦死し、その妻継は家族を連れて会津に逃れたと云います。長岡はこの戊申戦争や太平洋戦争における空襲によって多くの史料が失われており、藩士の歴史を体系的に辿る史料は余り無いようです。雲臺の子乾海及び乾海の子信一はともに海軍に入隊し、乾海は海軍中将に、信一は海軍少将に昇進しました。

長岡藩士吉見家系図
吉見乾海1864.11.18〜1942.11.29。
明治15年、海軍兵学校(12期生)に入校。防護巡洋艦秋津州艦長、戦艦周防艦長、旅順工作部長、造兵廠長などを務め、大正4年に海軍中将へ昇進した。また、大正3年には海城中学校(海軍予備校)の第2代校長に就任した。
吉見信一1894.5.22〜1988.5.18。明治45年、海軍兵学校(43期生)に入校。砲術を専門とし、巡洋艦の砲術長、砲艦勢多の艦長などを務める。昭和18年、南太平洋委任統治領マーシャル諸島のウオッゼ島に第六十四警備隊司令として赴任。米軍の猛爆撃と饑餓に苦しむ中、終戦を迎える。昭和20年9月2日、米巡洋艦バロンの艦上で停戦確認の降伏文書に調印。復員後医師になることを目指し、昭和27年に吉見小児科医院を開業した。医は仁術という言葉の通り、生活の苦しい人に対しては一律百円の治療代しか受け取らず、「百円先生」のあだ名がついた。その後海軍の経験も活かし、船医として洋上に出るなど、91歳まで現役の医師として活躍した。