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■■■能登吉見氏の系譜と事歴■■■

01.能登吉見氏概説

登吉見氏は、13世紀中頃源範頼の孫吉見為頼とその次男頼宗以下の兄弟達が能登に下向したことに始まります。本宗家の武蔵吉見氏が孫太郎義世の代で廃絶となった為、以後能登吉見氏が吉見一族の惣領家となりました。

13世紀半ば口能登(邑知潟付近)に進出した吉見氏は、付近の公領や荘園を侵略し、土着勢力と姻戚関係を結び、或いは金丸・能登部に砦を築くなど、次第に勢力を拡大して行きます。また、本拠とした邑知潟周辺は能登において最も肥沃な土地であり、その開発は能登吉見氏に豊かな経済力をもたらしました。そして鎌倉末期までには、来るべき動乱に対応し得る十分な力を備えていたものと思われます。

建武2年(1335)足利尊氏が建武新政府に叛旗を翻すと、能登吉見氏はいち早く尊氏の与党となり、京都攻防戦に参戦しました。この恩賞とも考えられますが、建武3年(1336)7月には吉見宗寂(頼為か?)が、翌8月には吉見頼顕が相次いで能登守護に任じられました。以後、観応の擾乱(1350)後の一時期を除き、南北朝動乱期を通じて能登吉見氏(頼隆氏頼父子)が能登守護の地位にありました。この間、新田残党軍・井上普門俊清桃井直常などの反幕府勢力と各地で激戦を展開しましたが、応安2年(1369)12月、奥能登若山荘に拠る山方六郎左衛門尉を討滅したのを最後に、国内の反幕府勢力を一掃しました。

守護として能登全域に支配を拡げることに成功した能登吉見氏ですが、その支配は必ずしも安定したものではなかったようです。それは能登吉見氏が幕府の奉公衆であり、本国能登を離れて京に滞在していた為であると思われます。能登守護職を競望した能登の国人で同じく奉公衆であった本庄宗成との対立、康暦元年(1379)の康暦の変(1379)を経て、吉見氏頼は能登守護を解任されてしまいます。それ以降、能登吉見氏は勢力を回復することなく、衰退の一途を辿って行きます。

畠山氏が守護として能登に入部した後も、一部の吉見一族は能登に残りました。史料によれば、吉見家貞家仲父子が正院郷(現珠洲市)内に所領を有し、吉見統頼統範父子が『富来院豊田』及び『櫛比荘内二ヶ村』を総持寺に寄進しています。家仲の孫右馬頭義隆は、長享元年(1487)の六角高頼討伐の際、外様衆として将軍足利義尚に随いました。その後、天正元年(1573)、能登守護畠山義慶の家臣に吉見三郎・同七郎の名が見え、戦国末期まで吉見一族の能登在住が確認出来ます。江戸時代の加賀藩士及び富山藩士に吉見氏が存在していますが、能登吉見氏の後裔であったと思われます。

能登吉見氏略系図