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■■■能登吉見氏の系譜と事歴■■■

10.第2次井上俊清討伐

胤連の残党を討伐した後、文和4年(1355)11月3日、足利義詮は吉見氏頼に対して、北陸の南朝軍を討伐するよう命じました。

●『吉見文書』●(前田家所蔵文書)
北國凶徒退治事、可廻籌策之状如件、
   文和四年  十一月三日   花押(義詮)
     吉見参河守(氏頼)殿

しかし、この時期戦闘は小康状態にあったらしく、史料が見当たりません。次ぎに吉見氏頼が南朝軍討伐に動くのは,延文4年(1359)の第2次井上俊清討伐になります。

第2次井上俊清討伐関係地図

7月6日、吉見氏頼はこれまで度々戦功のあった志雄保の得江石王丸に改めて参陣を求め、越中に発向しました。当時の井上俊清は、宇波城(氷見市宇波)を中心とした現在の氷見市北部付近を拠点に活動していたようです。

吉見軍は長坂口(8口あったと言われる石動山への入山口の1つである)から越中に侵攻し、先ず宇波城周辺の井上方の城砦(木谷城・白河城・閣間要害・芝峠・八代・氷見・千久里)を順次攻略し、外堀を埋めました。

10月、吉見軍は井上俊清の居城、宇波城の攻略に取り懸かりこれを落しました。敗れた井上俊清は下新川郡の宮崎城まで逃れます。(宮崎城は富山湾を挟んで氷見とは真向かいに当たり、越中の東端近くまで逃れたことになります。越中国内に井上俊清を支える勢力が意外と少なかったのかも知れません。)

吉見氏頼の軍勢は、宮崎城に逃れた井上勢を尚も追撃し、宮崎城及び境川で再び井上勢を撃退しました。これ以降、井上俊清の名は史料に現れません。『延文四年記』十月五日条には、たった1行「越中井上沒落了」とだけ記されています。

●『得田文書』●(松雲公採集遺編類纂百三十五所収)
 能登國得田乙王丸(章親)代大隅彦六貞章申軍忠事
右、越中國前守護井上入道暁悟(俊清)・同河内前司章俊可追罰之由被仰下之間、依爲乙王丸幼稚、差進代官貞章、去七月十八日、越中國長坂口令發向之處、白河城沒落畢、即於彼城并閣間要害、爲城持長々致忠節、屬于形部少輔殿御手、同九月廿日、自被召芝當下并木谷御陣以來、於所々抽忠勤、宇波・八代・氷見・千久里城攻落畢、同十月四日、凶徒等沒落之間、至于宮崎・堺河馳向、致忠節畢、此條彌郡彈正忠見知之上者、早賜御證判、爲備向後龜鏡、恐々言上如件、
    延文四年十一月 日
            承了、在判(吉見氏頼)