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■■■能登吉見氏の系譜と事歴■■■

11.第2次桃井直常討伐

安2年(1362)、足利義詮は反幕府最強硬派の越中桃井直常討伐を決意し、吉見氏頼以下北陸の武士団に追討を下知しました。

●『吉見伝書』●(松雲公採集遺編類纂百三十六所収)
桃井中務少輔以下凶徒等、令亂入越中國云々、早令下向、相催能登國地頭御家人等、馳向彼在所、可致忠節之状如件、
     康安二年正月廿三日          花押影(足利義詮)

こうして吉見氏頼率いる能登勢は、5月から7月にかけて石動山城において桃井直常・直広と、富来院木尾嶽城尾崎城において桃井の与党富来氏と戦うことになります。

石動山城に立て籠る桃井勢との合戦は非常に厳しい状況であったようで、足利義詮は援軍の派遣を告げて吉見氏頼を督励しました。5月27日の合戦に関する注進状には、能登勢に「討死・被疵」があったことが記されており、合戦の激しさを物語っています。こうして激戦が繰り広げられる中、7月になって桃井直広は遂に降伏し能登勢が勝利を収めました。

木尾嶽城

また、桃井勢と呼応して挙兵した富来氏の本拠富来院にも兵を進め、5月、木尾嶽城に富来斎藤次を攻撃してこれを討ち取り、7月には木尾嶽城・尾崎城両城を攻略して、富来氏の残党を滅ぼしました。(右の写真は、木尾嶽城本丸址から北西方面を望む)

応安元年(1368)8月、斯波義将が越中守護に任じられると、早速松倉城(魚津市鹿熊)に拠る桃井直常の討伐を開始したようです。翌応安2年4月12日、松倉城は攻略され、敗れた桃井直常はそのまま能登に向い、4月28日には吉見氏の本拠、金丸城及び能登部城に迫りました。吉見軍では、能登部城に吉見伊代入道(義頼)、金丸城に吉見左馬介(頼顕)が拠り、得江氏や得田氏等の諸将を率いてこれを迎え撃ちました。こうして6月1日までの1ヶ月余りに亘り、連日激戦が展開されたのです。

●『得田加賀介章房申軍忠事』●(得田文書)
右今年(應安二)四月廿八日、桃井播州以下凶徒亂入當國之間、章房前馳参金丸城、屬于吉見左馬助殿(頼顕)御手、至于六月一日、連日致合戰忠節畢、
(以下略)
金丸城付近

6月1日、吉見軍は激戦の末に桃井勢を撃退し、桃井直和は加賀に転じて加賀守護富樫昌家が拠る富樫城に向いました。桃井勢を退けた吉見軍は、吉見伊代入道を能登部城に守将として残し、越前の南朝軍討伐に向います。しかし、「富樫城難儀」とあるように、桃井直和の攻撃で富樫城が一時苦戦に陥いると、越前金津に遠征中の吉見氏頼、頼顕の軍勢は急遽富樫城の救援に駆け付けました。
(左の写真は、吉見左馬助が拠った金丸城址があると思われる山を麓の金丸地区から写したもの)

(第2次桃井直常討伐関係地図)
第2次桃井討伐関係地図

8月15日、吉見軍は平岡野(金沢市)、野々市(石川郡野々市町)において桃井勢と交戦しますが、この後吉見軍は吉見氏頼率いる軍勢と、吉見頼顕率いる軍勢の二手に分かれ、桃井勢を挟撃することになります。

●『得田加賀介章房申軍忠事』●(得田文書)
(略)
北國爲御退治御下向之處、桃井中務少輔(直和)巳以下凶徒、加州平岡野陣取、依及富樫城難儀、同(応安二)八月十五日、御發向之間、屬于吉見左馬助殿(頼顕)御手、於野々市、日々夜々致合戰畢、
(以下略)

(吉見頼顕軍の動向)
9月8日吉見頼顕の軍勢、桃井直和の平岡野陣へ攻め寄せ、これを攻略する。桃井直和は一乗寺城(津幡町)に逃れる。
9月17日吉見頼顕の軍勢、一乗寺城を責め落す。桃井勢は千代ヶ様城(東礪波郡庄川町)に逃れる。
9月18日松根陣から桃井勢を追撃してきた氏頼軍と合流する。

(吉見氏頼軍の動向)
9月7日桃井勢、宮腰(金沢市宮腰)に侵攻する。
9月9日吉見氏頼の軍勢、宮腰において桃井勢を破る。桃井勢は大野宿(金沢市大野)に後退する。
9月12日吉見氏頼の軍勢、大野宿の桃井軍を撃破する。桃井勢は宇多須山(金沢市卯辰山)の砦に布陣する。
9月15日吉見氏頼の軍勢、宇多須山砦を攻略し、桃井勢は松根陣へ逃れる。
9月17日吉見氏頼の軍勢、松根陣を責め落し、桃井勢は千代ヶ様城へ逃れる。
9月18日吉見氏頼の軍勢、千代ヶ様城へ発向し、頼顕軍と合流。

9月24日、吉見氏頼・頼顕の軍勢は、桃井直和が拠る千代ヶ様城及び井口城(東礪波郡井口村)を責め落し、桃井勢は松倉城(魚津市)へ敗走しました。吉見氏頼は越中守護斯波義将と共に桃井勢を追撃し、10月22日、桃井氏の本拠松倉城を攻略しました。吉見軍が桃井討伐を終えて能登に帰国したのは12月2日のことでした。(因みに、桃井直和は翌年、越中守護斯波義将との戦いで敗れ、討死しています。)