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■■■能登吉見氏の系譜と事歴■■■

12.吉見氏の能登支配確立

井直常討伐から帰国すると、吉見氏頼は休む間もなく、能登国内の南朝勢力掃討に着手します。応安2年(1369)12月28日、吉見軍は奥能登若山荘に侵攻し、同晦日、山方城に拠る山方六郎左衛門入道を討滅したのを最後に、能登国内の反幕府勢力は一掃されました。また、越中を拠点に激しく抵抗を続けた桃井直常は、応安4年(1371)7月、飛騨国司藤原家綱等と図って越中に侵入し、最後の抵抗を試みます。しかし、越中守護斯波義将の軍勢に敗れ、次いで後位荘において再び吉見軍に敗れ、歴史の表舞台から消えて行きました。こうして吉見宗寂が能登守護に就任してから約35年、能登における動乱は終息し、守護吉見氏による支配が確立したのです。

吉見氏がどのような体制をもって能登を支配していたのか、行政機構・家臣団組織・所領について史料から探ってみたいと思います。

  • (1)行政機構
  • 吉見氏の本拠は邑知潟西岸、現石川県鹿西町の金丸城及び能登部城であり、付近には居館等があったと思われます。しかしこれとは別に、守護政所が府中(現七尾市府中町)に置かれていたことが明らかです。暦応4年(1342)、吉見頼隆は永光寺に制札を立て、違反した者があれば、武士ならばその名字を注進し、凡下ならば召し捕らえて府中へ差し出すように命じています。

    応安5年(1372)6月、長近江入道跡地(正院郷内伏見・小泊・毛壽・蟹浦等)を五井左近将監頼持に宛行うよう下知を受けた吉見氏頼は、その執行を飯河三郎左衛門尉に命じ、永徳3年(1383)7月には、得田氏の知行を治田氏が違乱するのを、吉見伊代入道(義頼)に命じて停止させています。従ってこの両者は守護政所にあって、守護の命令を執行する守護代の地位にあったと推測されます。

  • (2)家臣団組織
  • 文永年間に吉見氏が武蔵から能登に下向した際、どれほどの家臣団を引き連れていたのか全く分かりません。何れにしても能登守護の吉見氏の家臣団は、少数の武蔵以来の家臣と、能登下向以後吉見氏の麾下に入った多数の在地武士から構成されていたと思われます。そこで、残存史料に見える武士達を以下に列挙してみたいと思います。

    1.吉見氏直属の家臣(人名は軍忠状等に見える主なもの)

    飯河氏守護代。飯河保(七尾市飯河)を本拠とする斎藤氏族。飯河左近将監家光、飯河左衛門尉藤光。
    五井氏守護代。越中国礪波郡五位荘より起るか?五井右衛門尉、五井左近将監頼持。
    長井氏侍所。武蔵国長井荘から起った大江氏族か?長井藤内左衛門尉時実。
    金持氏侍所。長氏と同じ長谷部氏族。金持三郎左衛門。
    岡部氏軍奉行。武蔵国榛沢郡岡部から起り、新補地頭として能登に入部。岡部六郎兵衛尉。
    土田氏軍奉行。鳳至郡土田荘を本拠とする国人。土田十郎右衛門、土田安察房。
    治田氏侍所。伊勢国員弁郡治田郷より起った一族か?治田太郎。
    高田氏鹿島郡高田保を本拠とする国人。高田彦次郎、高田弥次郎。
    須賀氏現埼玉県行田市須加から起った氏族か?須賀隼人充、須賀小四郎入道性海、須賀次郎入道兼清。
    沼田氏相模国沼田邑より起った波多野氏族。(後に越中国箕輪邑に下向)沼田太郎家秀、沼田與一。
    纐シ氏伊勢国桑名より起った伊勢平氏族か?纐シ伊予房快公。
    乙部氏伊勢国乙部より起った一族か?乙部兵衛三郎。
    木内氏下総国香取郡木内庄より起った千葉氏族か?木内下総権守。
    勝田氏詳細不明。勝田左衛門五郎。
    里見氏清和源氏新田氏族。里見左京亮。
    弥郡氏武蔵国出身で、新補地頭として能登に入部。志津良庄大沢村五分二地頭。弥郡時倶。

    これらの諸氏が吉見氏と直接の主従関係を結んだ武士達で、吉見氏の直轄軍として、有事における主力部隊となっていました。

    2.軍勢催促に応じて吉見氏に従属した武士団

    得江氏得江保(現志雄町)を本拠とする国人。
    天野氏伊豆国天野郷より起る。能登島東方地頭。
    得田氏得田保(現志賀町徳田)を本拠とする国人。
    長氏6代盛連の室が吉見頼隆の娘。盛連及び一族の秀信が吉見氏に属した。

    これらの諸氏は吉見氏とは直接主従関係にあるわけではなく、吉見氏或いは幕府からの軍勢催促により、有事の際に吉見氏に従属した国人です。彼らの軍忠具申状には、軍忠の知見者として吉見氏直属の家臣達の名が見えています。つまり、吉見氏は、(1)国内の武士達への軍勢催促という軍事統率権、(2)彼らの軍忠具申に証判を与え、または幕府に軍忠を報告するという権限、(3)所領安堵に関する権限を通じて、国内の武士達に対する支配を強めていったのです。

  • (3)能登吉見氏の所領
  • 能登部城

    能登吉見氏の所領についても、多くの史料は残されていません。吉見氏は鹿島郡を本拠とし、田鶴浜の赤蔵山に主城を置き、鹿西町金丸の仏性寺城・同能登部の能登部城・鳥屋町の徳丸城及び大槻城などの支城を配していました。(右の写真は、能登部城址と思われる付近を写したもの)

    従ってこれらの地域が能登吉見氏の本領かと思われますが、これ以外にも能登入部以降、付近の公領や荘園を侵略し、或いは戦功によって所領を拡大し、能登守護となってからは、その権限を利用して、闕所となった土地を『政所料所』として支配するなど、各地に所領を有していたと思われます。次ぎに掲げるのは、史料に現れる能登吉見氏の所領を表にまとめたものです。

    菅原荘(能登国)現石川県羽咋郡志雄町菅原。北野社松梅院を本所とする荘園。文永年間、吉見氏が押領。
    志々見保(能登国)現石川県羽咋市志々見町。元々鎌倉期の能登守護名越氏の所領で、志々見保地頭職は名越宗長から吉見三郎室(宗長と兄姉)を経てに吉見氏に相伝された。嘉暦4年(1329)、吉見円忠は妻伴氏女(村井又次郎入道知性女)に志々見保内の田畠を譲渡したが、離縁の後、その所領を巡り相論を起こしている。
    正院郷(能登国)正院郷内の伏見・小泊・毛壽・蠏浦。現石川県珠洲市正院町の地名。闕所(長近江入道母跡)として吉見氏頼が接収し、応安5年(1372)、五井左近将監頼持に宛行っている。その後、応永19年(1412)、吉見家貞が同所の知行を幕府から安堵されたが、その子家仲の時代には、五井氏による押領が進んだ。
    能登島御厨(西方)(能登国)元々長一族の所領であったが、吉見詮頼が南朝方であった長胤連を滅ぼした後、貞治3年8月、吉見伊代守義頼が能登島西方地頭となった。
    富来院豊田(能登国)現石川県羽咋郡富来町内。明応6年(1497)、吉見統頼・統範父子が総持寺に寄進している。
    櫛比荘(能登国)現石川県鳳至郡門前町内。永和2年(1377)に吉見義頼が櫛比荘内の田畑を総持寺に寄進している。その後櫛比荘内二ヶ村は代々相伝され、文明2年(1470)、同10年(1478)及び明応6年(1497)に吉見統頼・統範父子が櫛比荘内の田畑を総持寺に寄進している。
    外山郷(越中国)現富山県富山市。元は越中国人太田氏の所領であったが、桃井直常討伐の勲功の賞として、吉見氏頼が拝領。応永5年(1398)、吉見詮頼は亡父氏頼の菩提を弔うため、同郷地頭職を山城国東岩蔵寺に寄進した。
    賀茂庄(能登国)現羽咋郡内。康正2年(1456)「造内裏段銭并国役引付」に吉見右馬頭(家仲)能州賀茂庄段銭、とある。
    小河荘(越後国)永徳3年(1383)、吉見氏頼が小河荘内の地を得田章房に宛行っている。
    吉賀郷(石見国)現島根県鹿足郡六日市町・柿木村。九条家を本所とし、日野家を領家とした吉賀郡の一部。吉賀郡は石見吉見氏の本拠として知られているが、実は元々能登吉見氏の支配下にあった。(建武2年(1335)5月26日付、吉見宗寂宛て吉見頼隆下文。)能登吉見氏は代々、代官職を任されていたが、次第に石見吉見氏による押領が進む。家貞は対抗策として、益田兼理に代官職を去渡し、又香氏(俣賀氏)が代官下代となったようである。この点野々郷下領についても同じ。応永年間、吉見家貞は石見吉見氏の押領を幕府に訴えたが問題は解決せず、完全に石見吉見氏の所領となった。明応年間にも、吉見義隆が形の上でのみ安堵を受けている。
    野々郷下領(石見国)現島根県鹿足郡津和野町・日原町。吉賀郷と同じく九条家を本所とし、日野家を領家とした吉賀郡の一部。これも石見吉見氏に押領された。因みに、野々郷上領及び中領が石見吉見氏の本領である。
    長野荘(石見国)現島根県益田市西部。長野荘の内、高津・横田は吉見氏と関係が深い。ここも元々能登吉見氏の所領で、石見吉見氏に押領されたものと推測できる。
    その他三河国内の所領として、喜見寺砦付近(現愛知県豊橋市)や現高浜市内に所領を有し、吉見氏の嫡流(詮頼の後裔)は三河に下向したと思われる。
    吉見義隆の所領として、洛中六条秋田名散在・近江国志賀郡山上慶音坊跡、同錦織安養坊跡、近江国神埼郡栗見庄内成重名・岩福名、同郡岸本庄内小屋木名、山城国富野の存在が確認できる。

    能登吉見氏は一応能登全域に支配を拡げたものの、その体制は未完成で、実際には極めて不安定なものでした。それは、能登国内には守護の統制に服さない国人が存在したこと(長氏や本庄氏のような奉公衆)、足利義満が将軍となって以降、守護の京都在住が命じられたこと、が要因であったと思われます。すなわち、能登吉見氏が能登全域を制圧したのが応安2年(1369)であり、十分な体制を確立しないまま、吉見氏頼は京都在住となったのであり、また、能登吉見氏が例えば山名氏や大内氏のような強大な軍事力を保持していたわけでもなく、能登国内では非常に微妙な立場に置かれていたことが推察されます。