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■■■能登吉見氏の系譜と事歴■■■

13.幕府奉公衆としての能登吉見氏

安元年(1368)12月、足利義満が室町幕府第3代将軍に就任しました。足利義満は幕府権力の強化の一環として、守護の京都在住を命じ、更に、将軍直属の家臣として『奉公衆』を設置しました。奉公衆は守護の一族または各国の有力国人の中から選ばれ、常時交代で将軍の側に仕えるとともに、全国の幕府御料所の管理を任されていました。この意図は、守護の強大化を防ぎ、幕府権力を安定化させることにありました。これに伴い、能登守護吉見氏頼・詮頼父子も京都に在住していました。

●『荘厳寺文書』●
敷地高辻油小路与堀川間北頬、吉見兵部大輔殿(詮頼)寄進(略)
  応永十二年酉乙三月五日

応永12年(1405)、吉見詮頼は「高辻油小路与堀川間北頬」の敷地を荘厳寺に寄進していますが、長禄3年(1459)には、松平遠江入道聖慶という者が、吉見右馬頭家仲から「綾小路猪熊東頬」の屋敷を買得したことが史料から判かります。

また、能登吉見氏が奉公衆の一員であったことも史料から明らかです。応安3年(1370)4月、足利義満の六条新八幡宮・北野社・祇園社参詣の御剣役として見えるのを始め、永和5年(1379)7月の足利義満の奏慶への供奉まで、吉見詮頼が義満側近に仕えていたことが判ります。(下記の史料はその1例です。)

●『花榮三代記』●(応安七年四月条)
廿八日、雨降、御社参、
役人
御幣 吉見兵部大輔(詮頼)
御劔 吉見弾正少弼(氏泰)
御調度 佐々木出羽五郎(朽木氏時)
御沓 千秋宮内少輔
御笠 小串下總前司
(以下略)

吉見弾正少弼(氏泰)は渋川氏被官の吉見一族であるが、何れの吉見系図にも見えない。渋川氏との関係から、武蔵吉見氏の吉見尊頼の後裔か?渋川満頼の下で、摂津及び備中守護代を努める。渋川満頼の九州下向(九州探題)に従い、一時期肥前守護となった可能性がある。

吉見氏頼の曾孫吉見右馬頭家貞は、既出の「能登吉見氏の所領」の表中にあったように、奉公衆として、4代将軍足利義持の御台(日野栄子)の御料所として施行された石見国吉賀郡吉賀郷上領・中領・下領及び野々郷下領の管理を任され、代官を派遣していました。

更に、時代が下って長享元年(1487)、将軍足利義尚が近江守護六角頼高を討伐するために編成した総勢8千人の部隊の中に、外様衆として『吉見右馬頭(義隆)』の名を見ることが出来ます。(後鑑の義尚将軍記「長享元年九月十二日、常徳院殿様江州御動座当時在番衆着到」による)

その後も天文年間初め頃まで、詰衆・御部屋衆・申次などに、「吉見九郎」「吉見民部少輔」「吉見右馬頭仲益」などの名を見る事が出来る。

このように能登吉見氏は詮頼以来代々奉公衆として将軍側近に仕えており、吉見氏頼が能登守護を解任され、畠山氏が守護となった後も、畠山氏の支配下に属さず奉公衆(在国衆)として能登に居住した一族がいたことが判るのです。奉公衆は幕府権力と守護権力の狭間にあって、幕府権力が弱まると守護の被官となる者が現れ、一方幕府権力が強い場合には、将軍の直臣として、守護と敵対するような事も有りました。能登吉見氏が奉公衆として能登で生き残れたことは、畠山氏にとっても能登の領国支配の難しさを表しているのかも知れません。