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■■■能登吉見氏の系譜と事歴■■■

14.吉見詮頼の伊勢発向と吉見氏頼の南都発向

見氏頼が能登守護として、子息詮頼が奉公衆として京都に在住すると、吉見氏の能登での活動は少なくなり、代わって畿内における活躍が見られようになります。応安3年9月2日、幕府は九州探題として下向する今川了俊(貞世)に替えて、吉見氏頼を内談引付頭人に任じました。(引付方は一時期内談方とも称され、主に所領争いを扱う裁判機関です。その長官が引付頭人。)

●『花榮三代記』●
九月二日、(中略)一方内談頭人今川與州禪門(貞世)□□□被仰吉見右馬頭入道之處、領状云云、禪律方頭人事、赤松律師坊(則祐)之處同前、(下略)

応安4年(1371)4月、幕府は北朝に帰順していた楠正儀を援助するため、細川頼元を大将とする軍勢を派遣します。この時の戦線は伊勢国も含めた大規模なものになったのですが、吉見詮頼が京都から伊勢に発向したことが知られています。史料によると、伊勢の戦闘は現在の津市及び安芸郡美里村付近で行われたようです。

●『得田加賀介章房申軍忠事』●(得田文書)
右今年(応安四)四月爲勢州凶徒退治、吉見兵部大輔(詮頼)殿御發向之間、章房自能州同五月九日馳参江州守山宿、屬于御手、同十三日被召勢州長野御陣之間、致忠節畢、將又於片田山、垂水山、高足、須賀山、夜居森等御陣忠節畢、仍迄于御上洛之期令供奉之條、大將御存知上者、下賜御證判、爲備向後亀鑑、言上如件、
    応安四年十月日        承了(花押)

北畠顕能は伊勢国司として勢力を伸ばし、伊勢国の国人・士豪等を次々と被官化し、子息顕泰とともに伊勢国内の支配を強化していました。前年の8月には伊賀に出陣して、諸所の幕府軍を打ち破り、翌9月には近江に進軍して更に勢威を拡大しました。こうした中、幕府は北畠氏討伐のための軍勢を送りますが、6月10日には、北畠顕能が幕府方の世保康政を破り、安濃郡を制圧していることから、討伐は失敗したものと思われます。

永和5年(1379)正月4日、足利義満は大和国興福寺衆徒の要請を受け、十市遠康討伐のため、斯波義将・富樫昌家・吉見氏頼・土岐義行・赤松義則の各部将を派遣しました。大和国では古来より興福寺の勢力が強く、興福寺別当が守護に任じられていました。南朝方の十市遠康は、この興福寺領の荘園を押領し、領主化を進めていたのです。尚、討伐軍は翌2月20日南都より帰洛しています。