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■■■能登吉見氏の系譜と事歴■■■

15.能登守護職を巡る本庄氏との対立

庄氏は、九条家を本所とし日野家を領家とする奥能登若山荘(現珠洲郡)の預所の家柄で、代々日野家の被官となっていました。当時の当主、本庄宗成日野資教の家臣として在京していましたが、資教の妹業子が3代将軍足利義満の正室となると、業子の乳父であったことを利用して義満に取り入り、能登各地の所領を押領し、検非違使に任じられるなど、権勢を振るい始めました。やがて宗成は能登守護職をも競望するようになります。永和3年(1377)8月、足利義満が本庄宗成に能登守護職を与えることを認めようとしたことから、吉見氏頼は本庄宗成討伐を計画します。

●『後鑑』●(永和三年八月十日条)
後愚昧記云秉燭之後。大樹之亭武士馳集騒動云々。是恪勤者闘諍。相互致害云々。資教自元在大樹許。彼青侍本庄又参住大樹亭。可誅伐本庄之旨風聞故歟。彼本庄。以権勢押領人々所領。結局競望能登国守護職。大樹相計之故云々。依之能州守護吉見入道、鬱念愈々云々。

大樹・・・足利義満
資教・・・日野資教
青侍本庄・・・本庄宗成
吉見入道・・・吉見氏頼(入道道源)

後鑑によれば、吉見氏頼が本庄宗成を誅伐するとの風聞が立つと、宗成は追討を逃れるため、足利義満の邸宅に身を寄せたようです。この事件は、結局は吉見氏と本庄氏の私闘とみなされたために不発に終わりましたが、吉見氏の守護支配が極めて不安定であったことを示す1つの証拠です。