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■■■能登吉見氏の系譜と事歴■■■

16.康暦の政変と氏頼の能登守護職解任

安元年(1368)、足利義満が幼少で3代将軍に就任すると、管領細川頼之が政務を代行しました。細川頼之の支持基盤は、貞治5年(1366)の貞治の政変で斯波高経を失脚させた佐々木道誉、赤松則祐、畠山義深、一色範光、今川了俊、仁木義長、吉見氏頼などの守護連合でした。しかし、佐々木道誉や赤松則祐が死去すると、次第に細川頼之派の勢力は翳りを見せ始めます。一方斯波義将は越中守護として桃井直常討伐を成功させるとともに、山名時氏、土岐頼康、京極高秀(佐々木道誉の子)などを味方に付け、勢力の回復を図っていました。

永和5年(1379)正月、足利義満は興福寺からの要請で十市遠康討伐の為、斯波義将、富樫昌家、吉見氏頼、土岐義行、赤松義則等を南都に派遣しました。十市遠康は大和国の国人で、紀伊の南朝方に呼応し興福寺に対して蜂起したのです。斯波義将はこの期を捉え、管領細川頼之の失脚を目論みます。大和に入った斯波軍を迎えたのは京極高秀と土岐頼康で、いずれも斯波派の武将でした。幕府軍は軍勢を留めたまま一向に十市遠康討伐を開始する気配を見せず、その間に、逆に京に攻め寄せて細川頼之の排斥を企んでいる、との噂が駆け巡りました。後鑑によれば、京の市中では頼之派の武将達が自邸に軍勢を待機させる等、細川派・斯波派の一触即発の事態に騒然となっていたようです。

この混乱を鎮めるため、細川頼之は管領職の辞任を申し出ますが、足利義満は受け入れませんでした。義満は十市氏討伐軍の諸将に、速やかな京への帰還を命じます。頼之派に属していた吉見氏頼を含めほとんどの武将は義満の命令に従いますが、斯波義将は大和に残り、京極高秀と土岐頼康は領国へ向いました。義満は越中守護を罷免するという脅しをもって、改めて再度斯波義将に帰還の命令を下します。実際に斯波義将が京都に帰還したのは2月24日のことでした。

斯波義将の入京に合わせて、美濃では土岐頼康が、近江では京極高秀が挙兵しました。しかし、実際には兵を動かさなかったため、将軍足利義満による討伐は見送られ、頼康及び高秀は赦免の礼を述べるため入京しました。4月14日、各地から参集した武士達が京の市中を駆け抜けましたが、これは斯波義将、土岐頼康、京極高秀の計略で、昼過ぎには将軍義満の室町の邸宅は斯波派の軍勢に包囲されていました。包囲軍からは、細川頼之の管領職解任と四国への下向を要求する書状が義満に届けられ、義満はそれを受け入れざるを得ませんでした。こうして、夕刻までには、細川頼之は管領職を罷免され、一族及び家臣約と共に京を去りました。(康暦の政変。2月28日に年号は康暦と改元されていた。)

5月3日斯波義将は管領職に就任しますが、直後、細川氏の勢力を削ぐため、全国守護の一斉更迭を行います。頼之派の吉見氏頼がこの影響を受けたのか、はっきりしていません。ただ、永徳3年(1383)7月、氏頼は得田氏の知行を治田氏が違乱するのを、吉見伊予入道に下知して停止させていることから、この時点ではまだ能登守護であったと推測出来ます。しかし、同年11月の得田章房に宛てた書状に「能登守護復帰後」と読み取れる一節があることから、この間に能登守護を罷免されたものと思われます。吉見氏頼の能登守護解任に背景には、4年前の康暦の政変の影響もあると思いますが、大きな流れの中で見れば、幕府権力強化を目指し、守護の勢力を抑制するために足利一門を各国守護に配置しようとした足利義満の政策の犠牲になったと言えるのではないでしょうか。