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■■■能登吉見氏の系譜と事歴■■■

17.吉見氏の衰退と吉見一族の動向

見氏頼が能登守護を解任されると、能登における吉見氏の勢力は急速に衰退して行きます。その後の吉見一族の動向をまとめると次の通りです。

吉見氏頼・詮頼父子奉公衆として京都に在住か?応永5年、詮頼が越中外山郷地頭職を山城国東岩蔵寺に寄進した書状も京都で書かれたと思われる。
吉見頼之?
(詮頼長男)
『諸家系図纂』の吉見系図では名前は異なるが、詮頼の後裔は三河に移住したとしている。現愛知県豊橋市の喜見寺砦は、元中年間(1384-1392)に吉見喜太郎が在城したと伝えられる。
吉見成義
(詮頼次男)
「山田系図」によれば、山田氏は吉見詮頼の子息成義を祖としている。成義は弘和元年(1381)備後国に下向した。その後南朝方に属し、明徳の乱で嫡男義方と共に討死している。成義の孫義元は姓を清田と改めた。
吉見満隆・家貞父子吉見氏の衰退以後も能登に残った一族。幕府の奉公衆の一員。「諸家系図纂」「系図纂要」で満隆・家貞の系譜的な位置付けは異なっているが、史証確実な家貞の活動時期や他の史料から考えると、諸家系図纂に記される系図が正しいと考える。

先ず吉見氏頼・詮頼父子ですが、能登守護解任後も奉公衆として京都に在ったと思われます。応永5年(1398)詮頼は、亡父氏頼の菩提を弔うため、越中国外山郷地頭職を山城国東岩蔵寺に寄進していますが、故郷能登の永光寺等ではないことを考えると、京都に滞在していたことを窺わせます。

詮頼の子息達も能登を離れました。嫡男頼之(尊卑分脈に従った)は三河に移住し、三河吉見氏の祖となりました。現愛知県豊橋市の喜見寺砦は、元中年間(1384−1392)に吉見喜太郎が在城したと伝えられます。和歌山藩士吉見家は能登吉見氏の後裔ですが、その家譜には、代々高浜に居住したと記されています。三河の吉見氏の活動としては、本多広孝の家臣吉見孫八郎が、永禄12年(1569)3月7日の掛川城攻めで戦功を挙げたことが知られるのみですが、着実に三河の地に根を下ろしたようです。江戸時代、三河出身の大名家の家臣に吉見氏の名が散見されます。そして現在、愛知県(特に蒲郡付近)は吉見姓の分布が最も多い地域となっています。

吉見詮頼の次男成義に至っては、南朝方として備後国に下向し、明徳の乱で子息義方と共に討死したことが伝えられています。成義の孫義元は姓を清田と改め、更にその7代孫家時は妻方の姓山田に改め、頼熈の代に毛利吉就(萩藩)に仕えました。

能登に残った吉見一族は、吉見頼隆の三男義頼の系統です。義頼の子義範、その子満隆は史料には現れませんが、満隆はその諱から、奉公衆として足利義満の偏諱を賜ったものと思われます。

応永6年(1399)、周防・長門・石見・豊後・和泉・紀伊6カ国の守護大内義弘と将軍足利義満との対立は決定的なものとなり、10月遂に義弘は和泉国堺に方十六町にも及ぶ城塞を築いて、5千の兵とともに立て籠もり、幕府に叛旗を翻しました。11月8日、義満は自ら3万の軍勢を率いて東寺に陣を敷きますが、その軍勢の中に管領畠山基国や斯波、吉良、石塔などの諸将とともに、吉見の名を見ることが出来ます(応永記)。実名は記されていませんが、義範・満隆父子の時代に当たると考えられます。

満隆の子家貞以降も代々奉公衆としての活躍が見られます。その他、義頼の子息(或いは孫)国頼の系統も能登に残りましたが、15世紀中頃には能登守護畠山氏の家臣となっており、戦国期までその存在が確認出来ます。