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■■■能登吉見氏の系譜と事歴■■■

18.その後の能登吉見氏

永19年(1412)7月、将軍足利義持は奥能登正院郷内の伏見・毛壽・小泊・蠏浦の4ヶ所を吉見家貞の知行として安堵しています。この地は応安5年(1372)、吉見氏頼が闕所となった長近江入道母跡を政所料所として接収したもので、以来五井氏を代官として管理していました。その後、家貞の子家仲の代になると、五井氏は所領を押領したようで、家仲は争論を起こし幕府の裁決を仰いでいます。

応永29年(1422)、吉見家貞は石見国吉賀郡吉賀郷上領・中領・下領及び野々郷下領について石見吉見氏(木部一類)による押領が続いているとして、幕府に訴えました。そもそもこれらの土地は能登吉見氏の所領であることは明らかで、足利義持の御台所、日野栄子の御料所として施行された際にも、吉見家貞が管理を任されていました。

●『益田家什書』●
吉見右馬頭家貞代申、石見国吉賀上領、同中領、同下領、野々下領等事、為御台御料所先々施行之処、木部一類等押領未休云々、頗招罪科歟、早退被妨、三角右馬助相共莅、在所沙汰居、御代官便宜事等、可致合力之由、所被仰下也、仍執達如件
   応永廿九年十一月十八日         沙弥(畠山道端満家)
     益田左近将監殿(益田兼理)

家貞は管領畠山満家を通じて問題の解決に努めましたが、幕府が益田氏・三隅氏など石見の有力豪族を動かしたにも関わらず、一向に解決には至りませんでした。永享3年(1441)6月、幕府は改めて当該所領が吉見三河守(家貞)の本領であると認めましたが、結局問題は解決されないまま、荘園制の衰退とともに、完全に石見吉見氏の所領となってしまいました。尚、この件は「石見吉見氏の系譜と事歴」で詳しく取り上げます。

文明2年(1470)及び明応6年(1497)には、吉見統頼統範父子が富来院豊田、櫛比荘内2ヶ村を総持寺に寄進したことが「総持寺寄進状」に見えています。吉見統頼の系統は不明ですが、”統”の字から能登守護畠山義統の偏諱を受けたと考えられ、畠山氏に臣従していたと思われます。

吉見統頼・統範父子は何れの系図上にも現れない。しかし、総持寺に寄進した櫛比荘内の所領が「重代相伝の地」と言うから、同様に櫛比荘内の所領を総持寺に寄進した吉見義頼・国頼の系統に当たるものと推測する。

長享元年(1487)9月、将軍足利義尚は近江守護六角頼高の討伐を決定します。それは応仁の乱後、六角頼高が在京命令を無視して在国し、それまで押領した寺社本所領等を返還しなかったためです。更に頼高は近江国内の幕府奉公衆の所領をも押領し、奉公衆の中には餓死者も出た程でした。9月12日、足利義尚は近江に向けて進発しますが、この時吉見右馬頭義隆(家仲の孫)は外様衆として応じました。この時の遠征は六角軍のゲリラ戦に悩まされ、成果を上げられないまま、義尚の死とともに終わりました。

義尚を嗣いだ将軍足利義材は、延徳2年(1490)、細川政元を近江守護に任じ、翌年第2次六角征伐を行います。今回の遠征では六角氏に大きな打撃を与える事が出来、近江国を御料国として本格的に支配するようになりました。史料には見えませんが、この時も吉見義隆は討伐軍に参戦したものと思います。

六角氏征伐を一応成功させた足利義材は、次ぎに河内の畠山基家討伐を計画しました。明応2年(1493)2月、義材は畠山政長等と河内に発向し、正覚寺(現大阪府平野区)に布陣します。ところが、将軍の権力がこれ以上強大化するのを危惧した管領細川政元は、義材の不在を衝いてクーデターを起こし、義材を廃して、足利義澄を将軍位に就けました。義材は幽閉されますが、越中の神保長誠の手引きで脱出し、越中放生津に奔った後、北陸の守護達に頼って勢力の挽回を図ります。この畠山基家討伐の際、吉見義隆も奉公衆として義材に応じたことが、次の史料から判ります。

●『足利義材義稙御判御教書案写』(小早川家文書)●
   御判「義材後義尹又義稙」
備中国々衙広橋家本役在之田村越後入道跡、倉光次郎跡、越前国志都部郷長井太郎知行、備中国浅口細川民部少輔知行、石見国吉賀上下領付野上下、備後国木梨庄椙原下総守同名修理亮知行、并椙原三郎左衛門尉跡等事、云馳参正覚寺陣、云越中国供奉、忠節之条、為勲功之賞、所宛行也、早吉見右馬頭義隆領掌、不可有相違之状如件
     明応四年七月廿八日

これは足利義材が義隆の勲功を賞して、備中、越前、石見などの地を宛行ったものですが、結局は不渡りに終わった前将軍の約束手形に過ぎませんでした。その後、永正5年(1508)7月、足利義尹(義材改め)が将軍位に復すると、吉見九郎が近江国や山城国において所領を受けています。この吉見九郎は義隆の子と思われます。

●『吉見文書』●
御料所近江国神崎郡栗見庄内成重名并岩福名、同郡岸本庄内小屋木名等事、為堪忍料、被仰付訖、早可被全所務由、所被仰下也、仍執達如件
    永正五年九月廿七日         散位(花押)
                      美濃守(花押)
     吉見九郎

吉見義隆は明応7年(1498)10月以降史料に現れなくなる。「大乗院寺社雑事記」によれば、将軍義材の上洛交渉不調の責任を取り、切腹したようである。従ってこの吉見九郎(実名不明)は義隆の子と考えられる。九郎は足利義材の奉公衆として永正6年8月まで仕えていた。

その後能登吉見氏は更に衰退したらしく、幕府への出仕も滞っていました。元亀2年(1571)2月、将軍足利義昭は、幕府奉公衆として能登吉見氏が断絶している為、石見吉見氏の吉見正頼・広頼父子に対して、その惣別名字の名代を命じています。

●『吉見文書』●
聖門准后、就被相煩、為見舞、智厳院、罷下候、惣別名字之儀、当時断絶候条、為名代、在京可相続事、肝要候也
    (元亀二年)二月廿六日        (花押)(義昭)
      吉見大蔵大輔(正頼)とのへ
      吉見次郎(広頼)とのへ

恐らく能登吉見氏は畠山氏の被官となった為に、幕府に出仕しなくなったのでしょう。この2年後、天正元年(1573)、畠山義慶の家臣として吉見三郎・同七郎の名が見え(気多神社文書)、戦国末期まで吉見氏の能登在住が確認できます。