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19.吉見伊予入道とその一族

吉見伊予入道関連系図

見伊予入道(伊予守)は能登吉見氏の一族で、能登島西方地頭職を与えられ、その後能登守護代的な地位にあった人物です。これまで吉見伊予入道はその実名が不明であり、自治体史によっては、吉見円忠の子伊予守範景に比定しているものもあります。しかし、伊予守範景は、史料から暦応3年(1340)に没したことが明らかであり、吉見伊予入道とは別人です。

筆者は当初、吉見伊予入道は吉見又三郎範直ではないかと考えていましたが(「後鑑」では吉見伊予守範直と記されており、その他にこの時代に伊予守を称した適当な人物が見当たらなかった為)、その後の調査で、吉見伊予入道の実名を明らかにすることが出来ました。

結論から言うと、「吉見伊予入道」は諸家系図纂所収『吉見系図』に見える吉見義頼(右馬頭、号岳林寺殿、入道玄幸、能登守護吉見頼隆の三男)に当ります。そこで、ここでは吉見伊予入道が吉見義頼である根拠を示し、吉見伊予入道とその一族についてまとめてみたいと思います。

吉見義頼(伊予入道玄幸)の史料上の初見は、貞治3年(1364)兄で能登守護の吉見氏頼から能登島西方地頭職を与えられた記事です。元々能登島西方地頭は長胤連でしたが、南朝方に与していた為、吉見詮頼を大将とする軍勢に滅ぼされたことは既に見た通りです。長胤連との一連の合戦では吉見伊予入道の名は出てきませんが、当然何かしらの軍功はあったと思われます。

伊夜比盗_社

義頼は地頭職を与えられて間もなく、能登島に伊夜比盗_社を建立しました。伊夜比盗_社所蔵の棟札には「奉造立御寶前 地頭源氏(吉見)伊与守」と記されています。

その後、応安2年(1369)4月、越中の桃井直常の軍勢が能登に侵入した際、義頼は能登部城に拠り、兄氏頼及び一族の吉見左馬助頼顕とともに桃井勢を迎え撃ち、これを撃退しました。
(左の写真は、吉見伊予守(義頼)が建立した伊夜比盗_社)

弘和3年(1383)には、氏頼の下知により得田氏の知行を治田氏が違乱するのを停止していることから、守護代のような立場で兄氏頼を補佐していた人物のようです。

次に掲げる諸史料から、吉見伊予入道は吉見義頼であると結論付けられると思います。

(1)●『総持寺文書』(永和二年長谷部九通之内ノ五 沙彌)●
能登國鳳至郡櫛比庄諸嶽山惣持寺田畠・敷地等事、四至堺有本寄進状、
右寺領田地者、任定賢律師之寄進状之旨、*亡父玄昭禪門制札無相違上者、於向後玄幸子孫等守此旨、忽令違失、仍爲後證状如件、
     永和貮年乙辰九月四日       沙彌(玄幸

(2)●『護国竺山和尚語録』(栃木県柱林寺所蔵)●
(応永五年)
(上略)檀那比一辧香、奉爲山門大檀那貞公鑑院禪師并源朝臣(吉見)前伊豫太守玄幸禪定門、(下略)

(3)●『総持寺文書写』(京都徳雲寺所蔵)●
(端裏書)応永二年乙亥五月十五日 沙彌玄幸
惣持寺侍者御中
能登國櫛比御厨庄二个村之内、惣持寺領田地五段五神明役之事、
右、於彼役者、爲惣庄之法間、自寺家雖可有御沙汰候、國頼以敬信之儀、末代閣申處也、仍爲後證状如件、
     応永廿六年卯月八日       参河守(吉見國頼)在判
當寺住持
惣持寺侍者御中              國頼

(4)●『総持寺文書』●
(端裏書)「文書目録」
     惣持寺常住文書目録
(略)
一、當寺敷地四至分限之状一通(定賢寺領敷地寄進状)
(略)
一、吉見大蔵大輔殿制札状一通(能登守護吉見頼隆書下)
(略)
    貞治五年午丙十二月五日       如元(花押)
                      純證(花押)
                      宗眞(花押)

上記の史料は(2)を除き(2は永光寺文書)何れも総持寺文書ですが、先ず(1)・(2)によって、吉見伊予守が入道して玄幸と称したことが判ります。次に、(3)の史料によって玄幸と吉見参河守國頼が父子(或いは祖父・孫の関係)であることが明らかとなります。更に(1)の史料中の「亡父玄昭禪門制札」は、(4)の史料に見える「吉見大蔵大輔(頼隆)制札」に当たるので、吉見伊予守玄幸と吉見頼隆(玄昭禅門)が父子ということになります。

総持寺山門

そこで、上記の条件を満たす人物を探してみると、諸家系図纂所収の『吉見系図』に答えがありました。諸家系図纂所収『吉見系図』によれば、能登守護吉見頼隆には3人の子息がおり、その3男義頼(右馬頭、号岳林寺殿)の後、弾正少弼詮頼―孫三郎国頼と続いています。系図に表すと上記のようになります。(能登吉見氏の御子孫宅に伝わる系図では、義頼―義範―国頼と続く。)従って吉見右馬頭義頼が吉見伊予入道という事になります。

吉見右馬頭義頼の一族は度々寺領を寄進するなど、代々総持寺の有力檀越であったことが判ります。前項で既に紹介した吉見統頼統範父子も文明年間、総持寺に「櫛比貮个村」内の地を寄進しています。(上の写真は、吉見伊代入道一族が寺領を寄進した総持寺の山門)

●『総持寺文書』(吉見統範田地寄進状)●
奉寄進
櫛比貮个村之内鐵屋百苅等事
右件在者、爲*周堂玄昌居士菩提、永令寄進處也、若子々孫々有違亂煩儀者、可爲不孝之仁、但兩役等者可有沙汰候、其外地頭役停止者也、仍寄進状如件、
     文明貮年四月廿三日       (吉見孫太郎)統範
進上 惣持寺方丈

「櫛比貮个村」については、文明10年(1478)の統範寄進状で、「同名兵部大輔(統頼)重代相伝之私領」と述べており、恐らく吉見義頼の一族として代々相伝されたものと思われます。従って統頼・統範父子の系図上の位置付けは伊予守義頼の子孫ということになり、年代的に考えれば三河守頼経の子が統頼ではないかと考えます。

上記の史料から、能登守護吉見頼隆の法名が「玄昭禅門」であったことが判る。また、統範・統頼寄進状等に出てくる「(長谷寺殿)周堂玄昌居士」であるが、寄進の目的が周堂玄昌居士の永代供養であることから、例えば、統頼の父と推定される頼経や祖父と推定される国頼に当たるかも知れない。

総持寺の寺領目録によれば、統頼は戸板吉見殿(戸板は富来院内の地名らしい)、統範は二个村殿と呼ばれています。この頃一族は富来院内に居住していたのかも知れません。

●『総持寺文書』●
諸岳山總持寺寺領之目録 納戸寮置之
  雲崗和尚御代改之
諸岳山總持禪寺寺領目録之事
   合
古屋左衛門次郎指出之分
     ・
     ・
伍拾苅 分米壹石 二个村殿(統範)新寄進、金屋田
     ・
     ・
散田都合拾参石壹斗五升四合 壹貫貳百文 戸板吉見殿(統頼)、
爲周堂御寄進、直納地、
金屋田百苅 二个村殿殿、爲周堂新寄進 分米貳石二付、二个村殿殿以奉行、
毎年可有納戸、