■■■源範頼の後裔吉見一族の系譜と歴史を紹介するホームページ■■■

タイトルロゴ

トップ>>サイトマップ>>能登吉見氏の系譜と事歴>>現在のページ

■■■能登吉見氏の系譜と事歴■■■

02.吉見氏の能登移住

見氏の能登下向時期及び契機となった事情については確実な史料が存在せず、断片的な情報から推測するしかありません。先ず、『萩藩閥閲録』所収の吉見家譜によれば、三河守為頼が「建久八年能登国下向、此時為頼二従者ノ家臣大庭、丸毛、岩松、竹林等也」とあり、12世紀末に吉見氏が能登へ移住したとしています。石見地方に流布する他の石見吉見氏関連系図にもほぼ同様の記載があります。しかし、建久8年は源範頼が誅殺された僅か4年後で、範頼生害時4歳だったという範円(=為頼の父)は未だ幼少であり、明らかに誤りである事が判ります。

萩藩閥閲録を始めとする石見吉見氏関連系図に見える吉見氏初期の記事は、年代的な齟齬が著しい。為頼に関する事蹟の場合、或いは吾妻鑑に見える吉見次郎頼綱の事蹟が含まれているではないかと思われる。(例えば、『吾妻鑑』建久六年三月十日条には、東大寺供養の随兵として吉見次郎頼綱の名が見えるが、『萩藩閥閲録』では為頼の事蹟とする。その他の記事も頼綱に関する事蹟とすれば、その真偽はともかく、年代的な齟齬は無くなる。)両者を混同した原因は、共に次郎を称していることと、範頼流吉見氏(為頼)が小山一族の吉見氏(頼綱の系統)を嗣いだことにあるのではないだろうか。

次に、承久の乱(1221年)の勝利後、鎌倉幕府は全国で3千余りの朝廷方の所領を没収して、新たに地頭(新補地頭)を任命しましたが、吉見氏も新補地頭として能登に入部したのではないか、との説があります。『承久記』には、北条時房に随い近江国勢多の合戦に参加した吉見十郎・小次郎父子の名が見えますが、範頼流吉見氏との関係は一切不明です。また、この説も為頼の年令的なことを考えると、若干年代が早過ぎるように思われます。

承久記には吉見十郎・小次郎父子が、「武蔵国の住人」の一員として挙げられており、武蔵国吉見郡に関わりのある武士であることは明らかである。

そこで、吉見氏の能登下向時期及び契機について、もう少し別の観点から考えてみたいと思います。

能登における吉見氏の確実な史料上の初見は、次に掲げる北野社領菅原荘に関して『吉見三河守』に宛てられた沙汰状です。文中の吉見三河守は実名を欠いていますが、為頼か或いはその子頼宗に当たると思われます。

●『北野社文書』●
又日、北野社領能登国菅原荘事先度被仰畢、厳密可被沙汰付候也。
    文永  十二月三十日      吉見三河守殿

これにより吉見氏の能登入部時期については、その下限を文永年間(1265〜1275)に設定することが出来ます。

次に、能登下向の契機となった事情については、吉見氏と名越氏の関係から推察したいと思います。名越氏は第2代執権北条義時の嫡男朝時に始まる北条一門です。名越氏の祖朝時は北条嫡流でありながら、3代将軍実朝の怒りを買って失脚し、父義時からも義絶され、嫡男の座を失います。北条嫡流の地位を失った朝時は名越流を創設し、以後名越氏は得宗家の風下に甘んじることになりました。その為、名越氏は得宗家への対抗心が非常に強く、度々叛旗を翻すなど幕府から危険視された存在でした。ところが、この名越氏と吉見氏が極めて緊密な関係にあったことが、史料から浮び上がってきます。

『萩藩閥閲録』は、その年次の誤りはともかくとして、為頼が北条朝時を補佐したと伝えています。恐らくこれが、吉見氏が名越氏と関わる始まりであったと思われます。その後、両氏は重縁で結ばれる関係になりました。すなわち、為頼の次男彦三郎頼宗の女は名越備前守宗長の室となり(『吉見系図』)、名越時長の女は平政春に嫁した後、吉見三郎に再嫁したと伝えられます。(入来院本『北条系図』)この吉見三郎は実名を欠きますが、為頼の三男(一説に為頼弟)三郎入道頼氏に当たると考えられます。(山形県立米沢女子短期大学準教授・佐々木紀一氏「永仁四年吉見義世謀反の背景」)

吉見氏・名越氏関係略系図
永光寺山門

名越備前守宗長は、通称を備前二郎・備前前司といい、能登・安芸・豊前の守護に任じられた人物です。宗長の祖父朝時を始め、鎌倉末期の名越時有など名越一門が代々能登守護に就任していたようで、名越氏が能登と深い繋がりを持っていた事が判ります。従って、名越氏と姻戚関係にあった吉見氏が、名越氏との関わりの中で能登に進出する機会を得たと考えても不自然ではありません。そのことを裏付ける史料が、正慶元年(1332)6月(日付欠く)の『成知寄進状(永光寺文書)』です。この寄進状には、僧成知が永光寺に寄進した志々見保内の田畠に関する相伝系図が記載されています。(右の写真は永光寺の山門)それによると田畠は、

   北条朝時----名越時長----名越宗長----女子(吉見殿妻女
   ----吉見頼源----吉見円忠----伴氏女(円忠妻)----僧成知


と相伝されています。鎌倉末期に吉見氏が志々見保を支配していた事は明らかですが、恐らく志々見保地頭職は名越氏から譲られたものと思われます。

名越宗長から田畠を相伝した女性「吉見殿妻女」は、入来院本『北条系図』に吉見三郎室として見える名越時長女に相当するものと考える。諸系図によれば、宗長は時長の孫で備前守長頼の子とされる。しかし、時長には別に定長という子息がおり、通称備前太郎・備後守を称し、東漸寺と号した。この定長は別名が宗長であったとされ、しかも「東漸寺」は、正安3年(1301)名越宗長を大檀那とし、桃渓徳悟によって開山された寺の寺号と同じである。このことから、定長と宗長は同一人物であると考える。

では、「吉見殿妻女」が名越宗長から当該田畠を譲り渡されたのはいつ頃であっただろうか。両者の父名越時長は、兄光時が企てた寛元4年(1247)の宮騒動(寛元の政変)の際、執権北条時頼に野心無き事を誓い、処罰を免れました。しかし、その後建長4年(1252)突如自害して果てます。一説には殺害されたとも言われています。時長の突然の死によって、宗長は志々見保を含めた所領を相続したと考えられます。すると、「吉見殿妻女」が宗長から志々見保内の田畠を相伝されたのは、建長4年以降ということになります。こうして志々見保地頭職を得たことが、吉見氏の能登入部の契機となった可能性があります。

また、名越氏が能登守護であったことが、吉見氏の能登入部に関係があると考える事も出来ます。貞応2年(1223)以降、北条朝時が能登守護に就任していたことが確実ですが、朝時は寛元3年(1245)、53歳で没します。翌年、『寛元の政変』により、名越一族は失脚します。朝時の後の能登守護が誰であるか判明しませんが、少なくとも名越一族ではないようです。その後能登守護として史料に現れるのは朝時の孫、宗長です。建治元年(1275)「守護交代注文」(凝然自筆『梵網戒本疏日珠鈔』巻第八紙背文書)により、その能登守護就任が明らかとなります。宗長の能登守護就任時期は判りませんが、文永年間とみられています。宗長は北条一門で幕閣の中枢にいましたから、能登に下向した事はありません。そこで、宗長の能登守護就任を契機として、外戚である吉見氏が能登守護を補佐する者として何らかの所職を得て、能登に入部した可能性が考えられます。

以上のことから、吉見氏の能登入部時期は建長4年(1252)を上限として、文永年間(1265〜1275)までの期間と考えることが出来るのではないでしょうか。現段階の私見は、「吉見氏は名越宗長の能登守護就任を契機として、守護代など何らかの所職を得て、文永年間に能登国に下向した」ということになります。こうした下地があったからこそ、鎌倉幕府滅亡〜南北朝動乱初期にかけて、吉見氏が在地武士団を統率し、いち早く足利尊氏に協力する事が可能だったのだと思います。