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■■■能登吉見氏の系譜と事歴■■■

20.吉見義隆とその一族

見義隆九郎右馬頭)は既に述べたように(能登吉見氏の系譜と事歴「18.その後の能登吉見氏」)、将軍足利義尚足利義材の奉公衆として活躍した人物です。ここでは義隆の事跡とその一族について詳しく紹介してみたいと思います。

先ず義隆の出自ですが、「諸家系図纂」所収吉見系図にその名が見えます。それによると義隆は吉見家貞の次男(兄は太郎真頼)として「九郎・右馬頭」と注記されています。

吉見義隆関連系図

筆者としては、義隆が吉見家貞の子というのは疑問に思っています。既に述べたように、家貞の活動は応永年間の1420〜30年頃の史料に現れますが、その後能登において史料に現れるのが家仲(太郎・右馬頭)です。その時期が享徳年間から長禄年間にかけて、1450〜60年頃です。家仲は家貞の子と思われます。(両者とも能登国正院郷内伏見・小泊・毛寿・蟹浦等を安堵されている)義隆が史料に現れるのは、それから約30年後なのです。

「諸家系図纂」所収吉見系図では、家仲は武蔵吉見頼泰(七郎・武蔵守)の子となっており、太郎直頼・九郎元家の2人の子息を記します。一方、「系図纂要」所収吉見系図では、家貞の子を家仲とし、太郎直頼・九郎元家の2子が記されています。

そこで、残された史料・系図を検討すると、

  • ●吉見家仲は、古河公方に仕えた武蔵吉見頼泰の子ではな く、能登吉見家貞の子であろう。
  • ●家貞以降、「家」を通字として家仲・元家、家仲の弟家 朝に始まる因幡吉見氏と自然に繋がる。
  • ●諸家系図纂では家仲の子として太郎直頼・九郎元家が見 え、系図纂要でも同様である。
  • 以上のことから、筆者の作成した系図では、義隆は家仲の次男元家の子(九郎という通称が共通)としました。ただ、年代的に世代数が多過ぎると考えられ、元家と義隆が同一人物の可能性が高いかも知れません。

    長享元年(1487)の足利義尚による六角氏征伐に義隆が参加したことは既に述べました。(「長享元年九月十二日、常徳院殿様江州御動座当時在陣衆着到」)義尚は陣中で突然没し、足利義材が10代将軍となります。

    前将軍に続き、足利義材もまた、将軍の権威回復を目的とした第2次六角氏征伐を行います。今回の征伐は一応成功した為、その余勢を駆って、明応2年(1493)には畠山政長・畠山尚順等を伴い、河内の畠山基家征伐にも乗り出しました。しかし、その隙を突いて、管領細川政元がクーデターを起こします。すなわち、足利義材の将軍位を廃し、畠山政長を自害させ、義材の甥義澄を将軍として擁立したのです。(いわゆる明応の政変。細川政元は自らが操ることの出来る義澄を将軍として擁立し、幕府の実権を掌握しようと目論んだ。)

    義材は降伏し、細川政元の配下上原元秀の屋敷に幽閉されました。この時、奉公衆も含め多くの味方が義材の下を離れましたが、その後も正覚寺陣に残留した側近・奉公衆は40名程であったと伝えられています。「大乗院寺社雑事記」・「金言和歌集」に遺された交名の中に、吉見右馬頭(義隆)の名が見えます。

    その後、義材は夜陰に乗じて上原元秀の屋敷から脱出し、越中国人神保長誠の手引きで越中放生津へと落ちて行きました。この神保長誠は、明応の政変で自害した畠山政長の家臣で、放生津城を本拠とする分郡守護代でした。放生津には義材の奉行人・奉公衆が供奉し、その後、義材の下に公家衆・一部の国人も参集した為、あたかも越中にもう一つの幕府が成立したかのようでした。(このため義材は越中公方とも呼ばれる。またこの政権は、越中御所・越中幕府・放生津幕府などと呼ばれる。)

    さて、放生津に落ちた義材に随行した奉公衆の一人がこの吉見義隆なのですが、その後の活動を考えると、義材にかなり重く用いられた人物と言えるかも知れません。因みに記録によれば、義隆邸は御所から10町程離れたところにあり、義材が訪ねたことがあったようです。(走衆故実)

    越中に落ちたとはいえ、義材は将軍職復帰に期するところがあり、翌明応3年(1494)には上洛を計画して、義隆に対しても諸国の被官達と共に供奉するよう命じました。

    ●『室町幕府奉行人連署奉書』(尊敬閣古文書纂「吉見文書」)●
    就今度御上洛諸國諸被官人事、相催之可被供奉然各於所帯以下者、不可有相違、若有令違背之輩者、可被加其成敗由、所被仰下也、仍執達如件、
        明応三年八月廿一日      若狭守(諏訪長直)(花押)
                       沙弥(慈倫)(花押)
           吉見右馬頭(義隆)代

    当時能登守護畠山氏・越前守護朝倉氏・加賀守護富樫氏・越後守護上杉氏など北陸の守護・国人勢力が義材を積極的に支援していましたが、史料に「不可有相違、若有令違背之輩者、可被加其成敗由、」とあり、支持勢力の中には離反する者も少なくなかったようです。(越中に参集した者は270名程とされる。)また、越前では有力な支持勢力である朝倉氏が越前守護代甲斐氏との間で戦闘状態となるなど、義材の上洛は思うように進みませんでした。

    その後、明応7年(1498)になると、足利義材と細川政元の間に和解の気運が漂い始め、2月から5月にかけて、吉見義隆は京都の細川政元や河内の畠山尚順の下に使者として赴き、和解交渉(細川政元の同意を得て義材が上洛する)に奔走します。しかし、あくまで周防の大内氏の協力を得て上洛を果たそうと息巻く主戦派の圧力が強く、遂に義材は和解交渉を断念しました。こうして6月には吉見義隆はさしたる成果も無く、越中に帰国することになります。

    ●『大乗院寺社雑事記』●
    (前略)越中御所御上洛事ハ、種村以下所存者、大内上洛、毎事公方被得御力而御上洛有之者可目出、不然者不可然也、(後略)

    9月になり、足利義材はいよいよ兵を進め、越前一乗谷に朝倉貞景を頼りました。(この事から、義材は「越前公方」と呼ばれた。)この時吉見義隆は義材に供奉していません。「大乗院寺社雑事記」10月10日条によれば、どうやら義隆は先の和解交渉不調の責任を取り、自刃したようなのです。

    ●『大乗院寺社雑事記』●
    (十月十日条)去月廿六日、越中御所奉公吉見被切腹了、細川同意之故云々、如何事実歟

    「如何事実歟」とあるから本当に義隆が切腹したのかどうか不明である。「細川同意之故」とあって、義隆が切腹した理由が和解交渉不調の責任というのはあまり理解出来ない。義隆は細川政元等との和解交渉に奔走していたからである。或いは出家をしたのかも知れない。

    朝倉氏の下に身を寄せた義材は義尹と改名し、翌明応8年(1499)11月、朝倉貞景・畠山尚順等およそ三千の兵を率いて近江国坂本まで兵を進めます。しかしここで細川政元・六角高頼の軍勢に行く手を阻まれ、上洛を果たすことは出来ませんでした。敗北した義尹は、明応9年(1500)最大の支持者である周防の大内義興の下へ落ちて行きました。(こうして義材は「島公方」・「流れ公方」と呼ばれることになる。)大内義興と足利義尹の関係を言えば、六角氏征伐の際、出陣の要請を受けた父政弘に代わって参陣したのが大内義興であり、愛知川の戦いでは幕府軍を勝利に導いています。

    大内氏はそもそも細川氏と対立関係にあった。応仁の乱では細川勝元が東軍の総大将であり、大内政弘は西軍の主力として活躍した。また、日明貿易でも界商人を支配する細川氏と博多商人を支配する大内氏とは相争う状況であった。大内義興としても前将軍義材を庇護することで、将来義材を奉じての上洛ということを考えていたに違いない。

    義尹は山口今八幡宮の社坊神光寺を与えられて仮館とし、後七尾山に居館を設けました。義尹の山口行きに供奉した吉見一族として、「吉見九郎」と「吉見民部少輔」の2人を確認することが出来ます。吉見九郎は「御供衆」として見えますが、その通称から前出吉見義隆の子と推察されます。また、吉見民部少輔は「御部屋衆」として見えます。九郎は永正6年8月まで、民部少輔は「詰衆」・「申次」なども務め、永正14年8月まで義尹に近侍しました。

    尊経閣古文書纂「吉見文書」に、山口滞在時の永正4年(1507)に、吉見九郎から吉見民部少輔に宛てた書状が残されている。焼けて欠けてしまった部分があり全体の内容は判らないが、「万一の時は、事の子細を義材へ説明するように命じる」ものである。九郎と民部少輔は近親者と思われる。

    大内義興は義尹から再三上洛を促されたと思いますが、中々動こうとはしませんでした。義興は刻々と変化する情勢を冷静に見つめ、機が熟するのを待っていたものと思われます。文亀3年(1503)、細川政元は家督継承者として九条家から迎えた細川澄之を廃嫡して、阿波細川氏から細川澄元を養子とし、後継者としました。これにより、政元の家臣は澄之派と澄元派に分裂し、対立して行きます。

    永正4年6月23日、細川政元は澄之派の香西元長等によって暗殺され(永正の政変)、翌日細川澄元も澄之派に襲われ、近江に逃れます。澄之は将軍足利義澄から政元の後継者として認められましたが、政元の養子である細川政賢・高国等に攻められ討死しました。結局、細川澄元が正式に細川家の家督を相続し、高国等とともに将軍義澄を支えることになりました。

    こうした宿敵細川家の内紛と現政権の動揺を好機と見て、大内義興は上洛を決意したものと思われます。永正4年12月、義興は足利義尹を奉じ、中国・九州の大軍を率いて山口を発ちました。翌永正5年(1508)4月、義興軍は泉州界に上陸し、ここで細川高国(澄元から離反)・畠山尚順等に迎えられ、6月8日に遂に入京を果たします。この時既に将軍義澄・細川澄元等は京を脱出していました。7月1日、義尹は征夷大将軍に叙せられ、将軍位に復帰しました。また、細川高国が管領となり、大内義興は管領代と山城守護に任じられました。

    入京時、吉見九郎・民部少輔の両名は勿論義尹に供奉しているが、「安西軍策」によれば、義尹に供奉した石見国人(大内義興に率いられた)として吉見氏・益田氏・三隅氏・小笠原氏・高橋氏などが見える。この吉見氏は石見吉見氏9代頼興で、京に滞在を続けた義興に従って活躍している。詳細は石見吉見氏の系譜と事歴で紹介する。果たしてこの時吉見九郎等と吉見頼興はお互いを知る機会はあったのだろうか?

    供奉の功績が認められたのでしょうか、吉見九郎は永正5年9月から翌6年2月にかけて、山城国・近江国内に所領を得ています。(以下はその一例)そして、永正6年8月まで義尹に近侍していたことが判っています。

    ●『室町幕府奉行人連署奉書』(尊経閣所蔵吉見文書)●
    山城國富野小笠原備前入道孫童名國増跡事、爲御料所、被仰付訖、早至下地者、可被全領知之由、所被仰下也、仍執達如件、
       永正六年二月廿八日       対馬守(松田英致)(花押)
                       散位(斉藤時基ヵ)
         吉見九郎殿

    吉見民部少輔はその後も義尹に仕え、「後鑑」によれば、殿中の犬追物興行に参列し、その弓術が評判となったことが見えています。また、「永正七年在京衆交名」(益田文書)では「詰衆」として吉見民部少輔の名が見えています。その後義尹の申次となり、永正14年8月まで義尹に近侍していたことが確認出来ます。

    天文2年(1533)、吉見右馬頭が京都六条秋田名の地子徴収権を幕府から認められています。(室町幕府奉行人連署奉書)この右馬頭は、「披露事記録」によって実名が仲益であったことが知られます。地子徴収権を認められた六条秋田名は、永正5年9月2日付の室町幕府奉行人連署奉書によって、前出吉見九郎に与えられており、仲益は吉見九郎の子と考えられます。

    その後、「言継卿記」(天文15年正月15日条)によれば、吉見下総守が幕府に出仕していたことが見えます。

    天文16年(1547)、吉見下総守は因幡吉見氏(兵部少輔、実名不明)が知行していた因幡国小田郷・伊勢国野田保等を由緒の地ということで相続しました。恐らく因幡吉見氏が断絶したか、或いは本拠小田郷を離れたのでしょう。下総守の実名は不明ですが、上記仲益の一族であったと思われます。

    ●『室町幕府奉行人連署奉書』(尊経閣所蔵吉見文書)●
    同名兵部少輔知行分因幡國小田郷并伊勢國野田保等事、爲由緒之地条、被仰付之上者、弥全領知、可被抽奉公忠勤之由、所被仰下也、仍執達如件、
       天文十六年十一月十六日     対馬守(松田盛秀)(花押)
                       掃部助(中沢光俊)(花押)
         吉見下総守殿