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■■■能登吉見氏の系譜と事歴■■■

03.南北朝動乱と能登吉見氏

弘3年(1333)5月、足利尊氏が京の六波羅探題を攻略、次いで新田義貞が鎌倉を陥落させ、鎌倉幕府は滅亡しました。この過程における能登吉見氏の動向は、史料が遺っておらず明らかではありません。文永年間に能登における吉見氏の存在が確認されますが、その後は、元徳3年(1331)に吉見円忠が伴氏女と志々見保の田畠を巡る相論を起こした事が知られるのみです。

ところで、石見側に遺る史料には、後に能登守護となる吉見頼隆が、鎌倉幕府滅亡前の正中年間(1324〜1326)、石見に居たことを示唆するものがあります。石見吉見氏初代頼行の弟頼挙(よりたか)は美濃郡豊田郷横田を領し横田氏を称しますが、『横田氏系図』は頼挙の後を氏頼―詮頼と繋ぎ、頼挙が能登の吉見頼隆と同一人物である事を物語っています。頼挙は正中年間に横田の地から吉賀上領に移り、能美山城を築いたとされてます。

また、『澄川系図』の澄川出雲守盛清の譜文には、「鹿足郡上領有飯邑之内八谷迫住、正中年間吉見隆頼に属し功有」(隆頼は年代から見て、恐らく頼隆の誤りであろう)とあり、これも正中年間に吉見頼隆が石見に居たことを示唆しています。

澄川氏略系図

元弘3年、石見の吉見頼直は後醍醐天皇の綸旨を賜り、長門探題北条時直を討伐しましたが、『津和野町史』では、実際に綸旨を賜ったは能登の吉見頼隆ではないか、と推測しています。『博多日記』正慶二年三月廿四日条に、「北国ヨリ高津道性ヲ大将トシテ、十ヶ国兵ヲ相具、・・・」(後の廿九日条では「石見国ヨリ吉見殿ヲ大将ニテ」とする)とあって、北国=能登と解されています。仮に頼隆が正中年間以来石見に居たとすれば、石見で綸旨を賜り、長門探題討伐に向かったと考える事も出来るのではないでしょうか。また、後で見るように、能登吉見氏が吉賀上領を支配していた事は確実であり(建武二年五月廿六日吉見頼隆下文)、頼隆が一時期石見に来住していたとしても不自然ではありません。

以上の真偽はともかく、建武元年(1335)9月27日の後醍醐天皇賀茂両社行幸の際、足利尊氏が供奉のために率いた随兵の中に「吉見三河守頼隆」の名を見ることが出来ます。(長門小早川家證文・近江朽木文書)これにより、吉見頼隆が足利尊氏の有力な与党であったことが明らかとなります。

●『足利尊氏行幸供奉随兵次第寫』●(長門小早川證文)
     兩社行幸供奉次第
       汲兵              大概
    武田八郎次郎信助       三浦因幡前司貞連
    長井丹後前司宗衡       小笠原七郎頼氏
    佐々木源左衛門尉秀綱     二階堂信濃三郎左衛門尉行廣
    佐々木備中前司時綱      野本能登四郎朝行
        ・               ・
        ・               ・
       (略)             (略)
    吉見三河守頼隆
    細川帯刀直俊

後醍醐天皇は復古的な天皇親政を目指し、いわゆる『建武の新政』を開始しますが、公家主体の政治は多くの武士達の不満を招くこととなりました。折しも、諏訪一族に担がれた北条時行が鎌倉に攻め入り、尊氏の弟足利直義を破って、鎌倉を占拠します(中先代の乱)。足利尊氏は後醍醐天皇の勅許を待たずに、自ら征東将軍と称して北条時行討伐に向かい、乱を鎮圧してしまいました。後醍醐天皇は尊氏に京への速やかな帰還を命じますが、尊氏はこれに従わず、勲功のあった武士達に対して勝手に論功行賞を行うなど自立した動きを見せ始めました。建武2年(1335)11月、後醍醐天皇は足利尊氏を逆賊とみなし、新田義貞にその追討を命じました。鎌倉常光明寺に蟄居していた足利尊氏は遂に意を決し、箱根竹ノ下・佐野原において新田軍を撃破(12月11日〜13日)、敗走する新田軍を追撃し、近江経由で一気に京都へ攻め上りました。こうして京都を巡る武家方と朝廷方の攻防戦が展開されて行くことになります(京都攻防戦)。

こうした建武新政府に対する反乱は、能登を含む北陸地方でも勃発していました。建武2年(1335)11月27日、足利尊氏の兵に呼応した越中守護井上普門俊清は、能登・越中の武士を参集し、朝廷方の越中国司中院定清を攻撃しました。中院定清は父親で能登国司である中院定平を頼ろうとしたのでしょうか、能登国境に移動し、石動山に立て篭もりました。石動山は古代より信仰された真言宗の霊山ですが、朝廷方と通じていたため、中院定清をかくまったのです。しかし多勢に無勢で、12月12日中院定清は戦死し、360余坊を誇った石動山は全山焼亡しました。

●『太平記(巻十四)』●
一月二十七日、越中国の守護普門蔵人俊清、野尻、井口、長、波多野、足利殿の御教書を帯して、両国の勢を催し、叛逆を企つる間、国史中院中将定清、用害に就いて当山に立て籠もる。十二月十二日、逆徒大勢にて押し寄せ攻め戦う間、衆徒義卒に与して身命を軽んずといへども、一陳つひに敗れて、定清戦場において命を堕とさる、寺院ことどとく兵火のため回禄せいめ了んぬ

近江路から京都へ迫った足利勢に対して、朝廷方の千種忠顕・名和長年・結城親光は宇治・瀬田を防衛していました。12月30日、足利勢の高師直が、僧宥覚率いる山門衆徒千人余が籠る伊岐代館(現印岐志呂神社)に攻め寄せ、一夜でこれを攻め落とし、程なく軍勢の手分けがなされました。この時、吉見頼隆が従軍していたことが『梅松論』によって知られます。

●『梅松論』●
(上略)去程に、御手分あり、勢多は下御所大将(直義)、副将軍は越後守師泰、淀は畠山上総介、芋洗は吉見三河守、宇治へは将軍(尊氏)あるへきなり、京方の勢多の大将は、千種宰相中将、結城太田判官親光、伯耆守長年也、勢多は正月三日より矢合わせとそ聞こえし、(下略)

これによって当時の足利方の攻撃配置と、吉見頼隆の部将としての地位が推察出来ると思います。因みに、この合戦には頼隆の従兄弟に当たる伊勢吉見の吉見円忠の子息範景も伊勢勢を率いて参戦していることが知られます。

当初、戦闘は勢多・宇治・大渡で武家方の苦戦が続きましたが、9日になって細川定禅・赤松円心率いる中国・四国勢が朝廷方の山崎の陣を撃破、朝廷方の防御態勢が崩れ、後醍醐天皇は比叡山に遁れます。しかし、朝廷方は27日の賀茂河原、28日の神楽岡、30日の糺河原における一連の戦いで、遂に武家方を破り、足利尊氏は丹波篠山に敗走しました。この時の吉見頼隆の動向は判りませんが、武家方の敗走とともに本国能登に帰還したものと思われます。

丹波篠山に敗走した足利尊氏は一時兵庫に留まり、2月、再起を図るため一旦九州へ落ち延びました。3月、少弐頼尚の協力を得た足利勢は、筑前多々良浜で朝廷方の菊池武敏を破って九州の大勢を決すると、4月、遂に東上を開始しました。5月25日、足利軍は兵庫湊川において新田義貞・楠木正成等の軍勢を撃破(湊川の戦い)、6月には光厳上皇を奉じて入京し、その子光明を天皇に擁立しました。敗れた朝廷方は比叡山に遁れ、以後10月まで比叡山及び京で攻防戦が展開されました。10月になり、後醍醐天皇は足利尊氏が密使をもって申し出た講和条件に独断で応じ、花山院に幽閉されます。しかし11月21日、後醍醐天皇は花山院を脱出して吉野に落ち延び、行宮を設置しました。こうして、以後50年に亘る南北朝並立の時代となったのです。

能登吉見氏は、この過程でも足利尊氏に与し、京都近辺における2度目の攻防戦に参戦していました。

●『忽那重清軍忠状』●(伊予忽那文書)
伊豫國忽那次郎左衛門尉重清申軍忠事
右自當年五月上旬、吉見参河三郎入(氏頼)付着到、同廿八日追落洛中、同六月五六兩日合戰、被差遣當御手軍奉行五井右衛門尉間、軍奉行相共抽軍忠、同七日御向無動寺越中尾間、重清馳向之、同九月十一日十九日廿日合戰、捨身命毎度致散々戰畢、於只須河原令分捕之條、同時合戰輩、同國御家人野間三郎左衛門尉・新屋太郎左衛門尉令見知之上者、下賜御證判、爲備後證、恐々言上如件、
   建武三年七月日
                    承了 (花押)(吉見頼隆)

忽那氏は伊予国忽那七島を本拠とする豪族で、瀬戸内海上を中心に勢威を振るった在地勢力。元々一族を挙げて朝廷方として活躍していたが、足利尊氏が九州から東上を開始すると、忽那重清は武家方に転じた。重清の弟義範はその後も長く朝廷方として活躍し、忽那氏の最盛期を現出した。

今回は頼隆の嫡男氏頼が能登勢を率いて上洛したようですが、史料にあるように、能登以外の武士達も統率していたようです。また、足利尊氏は6月の入京直後、与党の武士達に新田義貞等凶徒の討伐に関する御教書を発したようで、御教書を受けた吉見頼隆が、『傳法院衆徒』に対して参陣を求めた文書が遺されています。

●『醍醐寺文書』●
義貞已下凶徒等為誅伐、所被成下御教書也、急速可被馳参状如件、
   建武三年六月十七日     参河守(花押)(頼隆)
     傳法院衆徒 御中

このように能登吉見氏は当初から足利尊氏の有力与党として活動し、動乱の中に身を投じました。その恩賞と思われますが、鎌倉幕府滅亡後最初の能登守護として吉見一族が登用されることになったのです。